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メインデッキは野戦桃独尊、独尊ワラ。君主名はなばーる。
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月下悉不睡

注意書き

・SR魏延×UC馬岱(女体化)です
・予め言いますが、魏延が死にます。


以上の事を踏まえて、ご了承いただける方のみ「つづきはこちら」からどうぞ。
フォントサイズが大きくなります。

 夕闇が迫る山中を騎馬隊が駆けていく。木立の間を縫って走り続けた馬は汗まみれで、疲労の極みに達しつつあった。
 先頭の鹿毛に跨った赤毛の男が手を挙げて騎馬隊に指示を出した。それに続く男達が、速度を落とせと口々に叫んだ。
 騎馬隊が徐々に速度を落としていくと、ひらけた場所にうち捨てられた屋敷の前で並足くらいの速さになった。屋敷は、随分前に誰も住まなくなったと見えて、塀や屋根の崩れ方も激しい。
 その廃墟の前に、葦毛の馬に率いられた十騎程の一隊が待っていた。
「斥候ご苦労。様子は」
「先回りしている魏兵はありませんでした。友軍は既に数里先に陣を敷いているようです」
 鹿毛に跨った男の問いに、葦毛の方が答えた。
「そちらこそ、追手は大丈夫でしたか」
「……癪だが、丞相の策が功を奏したようだ。……誰も何も、もう追っては来なかった」
「よくあんな物を密かに作りましたよね……」
 鹿毛の方がふん、と言った。あざ笑っているような溜息のような、どうとでも捉えられる、良く分からない反応だった。
 五丈原から蜀軍が退却して早くも二日が経った。殿軍を押し付けられた形になった男の部隊にかかる負担は大きく、偵察に出たり罠を仕掛けたりする度に兵士が減り、残った配下の将達の疲労が増えていった。この二日間誰もまともに横になっていないし、中には居眠りしている内に落馬して、打ち所悪く死んでしまった兵士も居た。
 今回の北伐は終わった。
 最高指揮官が死んだのだから、確かにそう捉えることも出来るだろう。そして、指揮官の遺した退却命令を無視してでも戦争を続けなければと言い張る自分は、混乱に乗じて成り上がろうとしている反逆者に見えるだろう。正しい情報を掴めずに浮き足立つ敵軍にかなりの打撃を与えられる絶好の機会だったのに、空前絶後の刹那の一瞬だと思ったのに、そう思っていたのは自分だけだったようだ。
 そして、先に撤退した友軍は追い打ちを掛けるように、自分が謀反を起こし、それに従う者は皆謀反者と見なして三族を殺すと脅し、配下達を手元におびき寄せた。国家の安泰を約束していた人物の死を地形や天気の変化のように扱う自分の事は、友軍と、逃げてしまった配下には、情の欠片もない人間のように見えたのだろう。
 そうして、煽られたり殺されたりして残ったのは、葦毛が直に率いている部隊だけだった。身軽さを武器に敵の虚を突く騎兵が、両手で数えられる程度の。自分が直に率いていた者達はとうに逃げ散ってしまい、今日率いている馬群も、葦毛に借りたものだ。
「今日はこの辺りで休もう!」
 そう言うと、兵達の顔に安堵感が浮かんだ。
「魏軍の追手は来ない。先回りしている奴も居ない。後は成都に一刻も早く帰るだけだ。大丈夫だ」
 そう言って、赤毛の男は――魏延は笑って見せた。一番強くて偉い奴がここで余裕のあるところを見せられないと、彼等も安心して休んだりなんか出来ないだろう。
「全員馬を降りろ。今日は横になって休め」
 もう一言、魏延はそう続けた。

 

 屋敷の中は荒し尽くされており、満足な調度品もなく、屋根と壁があるだけ野外よりはましという有様で、まさに廃墟としか言い様がなかった。兵卒達はそれぞれ集まって干し飯を食べたり寝入ったり、敷地内にある井戸から水を汲もうとしたりしていた。
 廃屋のそこここで休憩する兵卒の様子を見た後、壁に背を預けて床に直に座り込んだまま、魏延はじっと動かなかった。夕日は地平の向こうに消え、周囲の薄紫色は徐々に深まりつつあった。
 疲れ切ってうなだれている魏延から数歩離れた所で、馬岱は彼を見下ろしていた。
 魏延から見ればただ呆然と立ち尽くしているように見えるだろう。けれども、疲れてはいるが、彼からの指示があればすぐに動いてみせるという意思を見せておきたかった。それに、座って良いとは許可されていなかった。
「……座ったらどうだ」
 魏延がやっと気付いたように呟き、手で小さく指示した。馬岱は小さく首を横に振った。まだ疲れてなんかいないと、大丈夫だと意地を張った。
「丞相とは昔からソリが合わんかったからなぁ……」
「……私ではお力になれず、すいません」
 かすかな自嘲を含んでいるように聞こえる魏延の独り言に、馬岱は精一杯の返事をした。
「いや、誰が俺と同じ立場になっても、どうする事も出来んかっただろう。貴様があれこれ気に病むような事ではない」
 五丈原からの撤退後、魏延は一気に老け込んだように見えた。
 目の周囲が落ちくぼんでいるような、何だか隈ができているようにも見えた。顎に点在する無精髭がかげりを強調しているように感じた。馬岱には彼の無精髭が、放置されたこの屋敷の軒の瓦にへばりついた苔や草のように思えた。
 涼しい土地に、木々に守られる様に包まれて残る廃屋は、棄てられる前は誰かの避暑地であったのだろうと思われる。戦乱の世が始まり、暑さ寒さよりも辺鄙な土地まで出歩く危険さを重く見て、捨てられたのだろう。這い寄る夜の暗さが見え難くしていたが、破られた戸に使われていた木材は、残された欠片から推測すると黒檀のようだった。元々ここは、錦を飾ったり花を植えたりする様な所ではなかったのだろうと馬岱は思った。多分、調度品も黒檀で揃えて、庭にごつごつとした岩を配置して、俗世から離れた素っ気のない世界で神仙にでもなった様な気分を味わいたいと、廃屋の――屋敷の主は思ったのだろう。それが毎年出来る、気楽な時代であったら良かったものだ。
 主に棄てられ、匪賊のねぐらになってからは調度品も売り飛ばされて消えてしまい、庭の様相を理解する人間も居ない屋敷は、今日、自分達が落ち合う場所として指定するまで、誰にも必要とされていなかったかも知れない。
 誰にも理解されなくとも自分のやり方は正しいと信じて戦い続けたのに、御しきれない馬には価値がないと言う様に切り捨てられ、その結果、手勢の多くを失った上に謀反の疑い有りと断言された魏延は、ここの事をどう思うだろうか。「屋根があって雨風を気にせずに休めるなんて、贅沢で良いじゃないか。井戸も無事の様だし」と言うかも知れない。
 疲れ切った顔で項垂れ、どこを見ているというわけでもない目をして時折瞬きをするだけの男は、常に自ら最前線で敵兵を狩り、威勢良く指示を飛ばし、返り血を浴びながら笑ってみせた将軍と同一人物とは思えなかった。
「先帝陛下の悲願を達成できなさそうだ……」
「まだ、楊長史達に追い付いてもいません」
「陛下に、俺が謀反を起こしたと早馬で報せたらしいな。王将軍がそう言っていた。貴様にわざわざ橋を落とさせた意味が無くなってしまった」
「私が居ります。私が将軍の、文長殿の無実と真心を陛下に申し上げる所存です。そんな事が出来なかったら楊も費も、誰も彼も本当に殺してしまえば良いんです」
 馬岱は半ば本気だった。何とかして魏延を元気づけたかった。けれども、魏延の返事は乾いた笑い声だけだった。
「そうか。……ありがとう」
 虚しさに満ちた、形ばかりの笑顔と言葉だった。
「充分な兵卒も輜重も無ければ何も出来ないが、貴様と貴様の隊が何人か残ってくれていただけでも今は有難い」
 何とみみっちい希望だ、みすぼらしい言葉だ。あなたはこんなに小さな事で喜ぶような人間じゃないはずだと、馬岱は叫びたかった。しかし、叫んでみたところで、魏延の笑いと同じだ。否それどころか、虚勢にもならない。魏延と違って武勇も階位も持たない自分が言ってみたとしても、子供が分不相応の夢を語るのと同じで、微笑ましいとしか言いようがない。
 笑い、感謝の言葉を吐き、それから魏延は黙り込んだ。
「眠いな……」
「お休みになっても大丈夫です。私どもが見張ります」
「うん」
 そんな、意味のない言葉を交わした。
「……貴様も疲れているだろう。先に寝たらどうだ」
「いいえ。まず貴方の体を休めるのが先です」
「なめた口を叩くなよ?」
 薄闇の中でも思わず身構える程に凄味の利いた、敵意に近い、殺意も同然の眼光が放たれた。俺を何だと思っているんだと、喉と腹の奥から唸るように出た猛獣の声だった。
「……先に座り込んでしまわれたり、眠いと仰ったのは貴方です。魏将軍」
 思わず退げそうになった足を踵で踏み止まり、震える声で馬岱は答えた。
 薄闇の中で互いに身構えたまま動かずにいた。どちらも衣擦れ一つ呼吸の音一つ発さずにいて、部屋の中にも廃墟の中にも音をたてる物はなく、ただ兵卒達が声高に談笑し合う声が遠く聞こえた。それが切っ掛けだったかのように、張り詰めていた空気が緩み、ふん、と男の鼻で笑う音がした。
「……参った。さすがに」
 ただそれだけ呟くと、敵意も殺意もしぼんだように放たなくなった魏延が俯き、手招いた。
 馬岱はそれだけで彼が何を望んでいるか理解した。
 馬岱が腕一本分程の距離まで近づき腰を落としたと思ったら、男の手が強く肩を掴み、地面に押しつけた。床に背中を強く打ったのと腰から大腿までにのし掛かられるのを同時に感じた。顎を開かされ、包帯の塊のようなものを突っ込まれた。
 これまで、退却するまで、陣中で何度かこんな事があった。相手は言葉も表情も無く手招き、最初は無警戒に、次からはそれと察して近寄った馬岱の肌を晒し、乱れさせた。
 けれども今は違う。手早く済ませてしまおうという感じでもなかった。見上げる男の顔は疲労に塗れて淀んでいた。何か別な事をされるとだけ感じた。
 淀んだ目のまま魏延は馬岱の手首を揃え、固く縛った。布きれが締まり手首を圧した。遊ぼうとしている縛り方ではなかった。魏延にしてはのろ過ぎる程もったりと重苦しい泥濘のような殺意があった。
 いや、違うと思った。魏延から発せられる重苦しい気配は殺意ではない。もっと違うものだ。この男の殺意は殺す相手を見付ける度にその視線に番えられ、剛弓から放たれた矢よりも素速く真っ直ぐに標的を死にやるのだ。この気配は初めて気取った。殺意ではないと分かったものの、殺され掛けている事に変わりは無い。
 今になって、ここまで順った自分を殺すのか。唐突すぎないか。彼が自分を殺す理由が知りたかった。
 なぜ。
 けれども言葉は口に詰められた布に吸われ、無様な呻きにしかならなかった。
「なぜ……か」
 魏延が呟いた。呟いたまま動かずにいたかと思うと、短剣で、縛ったばかりの馬岱の手首の戒めを解き、口の中の布をつまんで捨て、動かなくなった。馬岱は魏延の手先をしばらく見て、目玉だけを動かして魏延の顔を伺った。
 俯いたまま動かない、疲れ切った無表情の中に煙のように幽かな悲しみが漂っていると思えた。なぜそんなに悲しい顔をするのか、訊いて良いだろうかと思案していると、魏延の方から口を開いた。
「……貴様は口先では聞こえの良い事を言ってくれるが、本当はどうなんだと思ったんだ。貴様は既に楊の味方で、何かの策で仕方なく俺に付いてきてるだけじゃないかと思った」
 それだけ言って、魏延は降りた。重みから解放された代わりに、冷えた空気がまとわりついた。
「放っておいたら俺の寝首を掻くんじゃないかとか、俺が寝ている間に楊達の所に逃げるんじゃないかって思うと、どうにかしてしまおうと思った。……でも、どうかしていたのは俺だったんだ……」
 訥々と語る魏延の目は泥の溜まった溝のように濁っていた。あるいは、腐りかけた魚のような。えぐれた穴に柔らかく水っぽいものがただ嵌っているような、そんな感じだった。
「……あんまりこんな事言わせんでくれるか。俺は俺で相当情けないと反省はしているんだ」
 自分を見つめる馬岱の視線を批難と受け止めたのか、目を閉じて最後にそう付け加えた。
「すいません……」
「いや、そもそも俺の勘違いなんだ。何で貴様が謝らなきゃならん」
 馬岱が言葉を選ぼうと逡巡しながら上体を起こす間に、魏延が欠伸をして、床に寝転がった。
「しかし、本当に久しぶりに横になったな……」
 ぽつりと、心底弱っていたように魏延が言った。
「見張りを――」
「承知いたしました」
「……すまんな」
 頭の下で腕枕を作りながら、魏延は既に眠気の感じられる声でそう言った。
「馬岱」
「はい」
 空が、とそれだけ言うと噛み殺した欠伸をした。
「そらが、あかるくなりはじめたらおこしてくれ……」
 寝言のような発音も定かで無い声でそう言って、しばらくして魏延は規則正しい寝息をたてはじめた。
 相当疲弊しているようだと馬岱は思った。
 それは彼女にとって、大変に好都合であった。
 魏延がどう考えた末にその結論に達したのか、それとも何かを予感していて知ってか知らずかの内に答えを出したのか、馬岱は魏延の下には居ない。
 いつからかと問われれば、丞相――諸葛亮が生きていたら、「元々彼の配下などではなかった」と答えるだろう。
 その諸葛亮の最後の命令は北伐の継続ではなく、一旦退却して力を蓄え、機を伺って再び魏を攻めるべきである、という内容であった。蜀漢の行く末が案じられてならない彼なりの気遣いなのか、君達の仕事よりも私の方が上だといういやみなのか、誰がどんな仕事を行うように、というような細かい人事まで指示されていたようだ。
 そして、軍事に関する事は楊儀に継がせるようにと指示された。
 兵站の計画を担い予定を立てて人を動かすのが上手いだけの、ただの文官で、遠征経験は度々あったが、陣頭指揮の経験は皆無である。
 それを伝令から聞いた魏延は激怒して、今はまだ魏軍に諸葛亮が死んだという確かな情報が伝わっておらず、混乱が生じており、そこにつけ込むのが一番良いはずなのになぜそんな事をするんだと怒鳴った。ことに、楊儀の人事については伝令に殴りかからんばかりの口調で怒鳴り散らした。
 しかし、人間の形をした書類も同然の伝令にあれこれ言っても何もならないのは充分解っているようで、表情には単純な憤りだけではなく、悔しさや無念さが滲んでいた。
「……俺は戦を続ける。輜重は適度に置いていけ。……本当なら、丞相でも同じ策を取るだろうよ」
 喉の奥から絞り出すように、かすれた声でそう言った。
 馬岱が伝令を見送りに出ると、彼は歩きながら小さく丸めた布を握らせた。陣内ですれ違う誰もが気づかなかった自然な仕草だった。
 幕舎に戻ると、魏延が椅子に座り込んでうなだれていた。
 声を荒げても怒っても状況は変化せず、むしろ諸葛亮死すの情報は間違いではないと確信した魏軍が攻めてくるのが近づくだけでしかない。
 堅く握りすぎた手のひらに爪が食い込んで血が出ているのが見えた。指の隙間に濃い赤色の部分が広がっていた。
「落ち着かせてくれ……」
 どうしようと思っていると、声を震わせて悔しげに魏延が呟いた。
 自分に出来ることは今何もないと思った馬岱は魏延の元を離れて、書簡を読み直す振りをしながら、先程の布を広げた。
 土埃と泥で薄汚れた布には、小綺麗な読みやすい字が連なっていた。何度も書簡で読んだから知っている。諸葛亮の字だった。
 しかし諸葛亮の直筆の指令を貰ったことよりも、内容を読むより速く目に飛び込んで、脳髄を刺した一文の方が、馬岱の頭を直撃した。


 ――魏延を殺せ


 ――あなたに最後の策を授けます。
      魏将軍を殺してやって下さい。
      私は彼の能力の高さを知っていますが、楊長史達に彼の手綱を握れるとは思えません。しかし、蜀軍全体をまとめるには彼は孤独すぎる上に、脇目を振らなさすぎる性格です。
      そしてその性格故に、私の死後は何も考えずに魏国へ挑もうとするでしょう。
   蜀漢を守る為の攻めとしてではなく、先帝陛下への報恩という大義名分の為に攻めるでしょう。
   そんな事をすれば、蜀漢の滅亡が早まるのは目に見えて明らかです。
      私はそんな無様な未来の到来を恐れています。先帝陛下に託された蜀漢が少しでも存える事が、死に瀕した私のただ一つの願いです。
      友軍の者を斬り捨てるなんて酷い事をすると思われるでしょうが、これは、手綱を上手く握ってやる事だと考えて下さい。走りたいままに走ろうとする野生の荒々しい馬を御してしつける為の様な物だと。
   あなたは既に魏将軍に信頼されているご様子ですので、彼も、あなたに対しては油断していると思います。
      既に楊長史達や姜将軍にも今後の策を授けていますし、この事を伝えています。
      蜀軍全体の為にも、蜀漢の全ての民草の為にも、魏将軍を殺してやって下さい。


 少しばかりの叙情的な表現を散りばめられてなお、淡々とした事務的な文だった。
 手紙は既に燃やしたが、あれを開いたときの衝撃は忘れられない。お前は誰に従っているのだと、暗に尋ねていた。お前が所属しているのはどこだ、お前が忠節を誓ったのは誰だ、と言っていた。
 手紙の内容と魏延の命の行方を握っている重圧が、馬岱を寝付けなくした。いつにも増して目が冴えているような気がした。
 今日は満月に近く雲もほとんど出ておらず、月の光だけで影が出来る程薄明るかった。捨てられた建物の、手入れをする者が消えて久しい荒れ放題の、奇妙な形の岩のある中庭に、どこからか飛んできた野草が咲いていた。黄色かった。それが風に揺れていた。頷いているようにも首を振っているようにも見えた。高い音で鳴く虫も居るようで、そこかしこから色々な音が聞こえてきた。
 小さな野原も同然の庭を見渡せる、冷えた石の長椅子に腰掛けて、馬岱はただぼんやりとそれらを見て、聞いていた。手の中でもてあそんでいる磨き抜かれた小刀が、時折月光を反射させて鈍く光った。別に何ともない、ただの飾り気のない小刀だ。今魏延が深く眠っているなら、日に焼けた首筋の脈動する所にこれを宛がって、押し込んで、勢い良く引けば諸葛亮の命令は忠実に守れるし、蜀漢の寿命も延びるという算段だ。
 もしも魏延が起きてここに居るなら、何か言葉を掛けてくれるだろう。交代要員に関する事だったり、どんな奴が来ようが俺には敵うまいと言う自慢だったり、多分そんな事を。
 何と言ってくれるだろうか。現状をどう守り、優勢に変えていくかについてしか興味のない男だから、そういう事を言いそうなのが簡単に想像できた。
 交代要員なんて無い。馬岱が皆に諸葛亮の遺命を伝えて、休むようにと言ったからだ。もしも自分が刺し違えていたら魏延の首だけを持って行く事と、暗殺に失敗したら真っ直ぐに成都方面へ逃げろと、自分なりの命令も付け加えたが、どうなるだろうか。
 敵も味方も追手を寄越さないだろう。こんな小さな、物見と伝令位にしか使えない人間の集まりに成り下がった自分達を、一体誰が付け狙うのか。
 いつだったか魏延は、自分の事を一人の部下として他の将達と平等に扱っていると言った。けれども、戦場では獣の様に警戒心を剥き出しにする男が、無防備に寝ている姿を晒してやる部下なんて、今まで誰もなかったはずだ。
 彼の本性を他人に評価させれば、「人間の皮を被った、人間ではないもの」とでも答えるだろう。普段は人間らしい振りをして、いざ戦場でその皮が剥がされる時の様子が、一番、彼に似つかわしい姿で、誰もが真っ先に思い浮かべる姿だろう。
 しかし「それ」が、自分がいつでも殺せるからと言う自信からではなく、自分に危害を加える事はないと判断した理由からではなく、ごく当たり前に、時に冗談を叩き、つまらない話をだらだらと交わし、声にならない何かが高まりすぎて劣情となって肌を合わせる程にまで、人間らしく付き合っていた。全く他人には見せない、人間の顔をさらけ出していた。
 諸葛亮が野生馬に、他の文官・同僚の将軍でさえもが獣に喩える「それ」はただの「人間」でしかなかったのだ。他の者より図抜けて存在感と武人としての力が強過ぎて、人間らしさが見えなかっただけだったのだ。
 けれどもどう頑張っても自分は、それだけ信頼してくれた「人間」に、恩を仇で返すような真似しか出来ない。そう言う筋書きになっていた。
 彼には死んでほしくないが、自分がここで手を下さなくてもいずれ誰かが殺してしまうのだろう。魏延が死なずに済んで、尚かつ楊儀達を納得させられるような案は、残念ながら見あたらなかった。寝首に刃物を当てて引かれるのか、寄って集って野獣のように狩られるのか、毒を盛られてのたうち回って死んでいくのか、どんな形にしろ、魏延は最後には動かなくなってしまうのだ。
 なぜと問わなければ良かった。あの時に殺されていたら、魏延が死ぬのを目の当たりにせずに済んだかもしれない。今思えば、あの気配は宇宙の全てを敵に回したから発せられた疑惑の念なのかも知れない。
 お前は「何」だと問う手紙が、一層強く脳裏に蘇った。
 「何」だ。蜀漢の一将だ。戦上手でも勇猛でも何でもない、ただの頭数合わせの、そこらの兵卒に比べてちょっとだけ読み書きが出来て教養があるだけの人間だ。死にたくないと必死に足掻いていたら、いつの間にかそうなっていた。
 自分は無責任で、これまで行き場所を失くすのを恐れていた。独りぼっちになるのが怖くて従兄に必死に付いて回り、その死後は食い扶持の為に指令に従い将兵の真似事をして、最後にこの男の副将という扱いになった。
 長い策の端緒として手ひどく鞭打たれ、魏延の配下にされた時の不安を捜しても、つい最近の事だったはずなのに見つからなかった。
 ――陥れられて兵卒の身分にされた。彼は私を慰み者にした。大怪我がまだ癒えていないのに従軍させようとした。西涼馬家の名が無ければただの貧弱な、嫁にもなれない石女だと笑い者にした。旧来の配下に娼婦のように貸し出した――
 嗤われても侮辱されてもいない事を自らでっち上げ、自分をせきたて、奮い立ててみてもただただ滑稽だった。どれだけあがいて、燃え残った感情をかき立てて新たな火種を捜そうとしても無意味だった。
 元来、火種なんて無かったからだ。
 自分は何の覚悟も信念も持たずに生きてきた。周りの強い流れに素直に従い過ぎてきた。隣の家にお使いに行く子供のような、そんな程度の人間だったのだ。
 今自分達が逃げている山中一つとっても、諸葛亮が用意した策の中に雁字搦めに囚われている。この先に、楊儀達の待つ、適当にこしらえた陣がある。
 自分が今立ち止まっているのはそこに続く小道と同じく、ただの一本道しかないのだ。
 虫達が好き勝手に鳴いて、黄色い花も緩やかな風に諾々と首を振り続けていた。
 何気なく見上げれば、白く輝く月光を受けて、ちぎれた綿の切れ端の様な雲が、上等の絹の紗のように光っていた。静かで、何もないこの場所だけが切り取られて、どこかに行ってしまえば良いのにと、有りもしない事を考えた。
 誰か、下手な絵描きでも良いからこれを絵の中に閉じ込めてくれないかと、字を習いだした子供でも構わないから詩の中に詠って封じてくれないかと。
 本当に、そうなってしまえばいいのに。
 庭を囲む回廊に誰かが出てきて、そして庭に居る自分に気付いたようだった。足音と衣擦れが近づいてきて、それが大きくなるにつれて、振り返らずとも魏延だと解った。
「貴様は眠らんのか」
 長椅子の横に立った魏延に、初めて目線を向けた。魏延が席を譲れ、と手で示した。馬岱の右側に座らせろと、そう言う動きだった。馬岱は立ち上がり、彼が座れそうな位の空間を空け、また座り直した。
「それとも眠れんのか。実は俺もだ」
 真横に座った魏延の言葉に、馬岱の心臓がきゅっと痛んで背中が冷えた。もしも不用心に魏延が寝ている所に足を踏み入れたら、どうなっていたか解らない。
 焦る馬岱の心中と、彼女が握る刃物には何の興味も持っていない様で、彼は視線を前に据えたままだった。小さな野原の何を見ているのだろう。
「鮒みたいな刀だな」
「鮒」
「いや違うな。何かの川魚みたいだ」
 また一段と強く、無様に跳ね続ける心臓を落ち着かせようとゆっくり、深く呼吸をしながら馬岱は手の中の刀を見た。誰がどう見た所でただの刀で、魚なんかには見えない。
「……刺さんのか?」
「え」
「貴様のそれで、今俺の脇を思い切り刺せば、何だか知らんが命令とやらは成せるぞ」
 そう言いながら鼻で笑って、魏延がこちらを向いた。
「丞相と俺はついぞ折り合った事なんか無い仲だがな、ただ一つだけ似ていた所がある」
「……どんな所がですか」
「使う物は最大限何でも使うという所だ」
 魏延はそう言いながら、腕をのろりと上げて人差し指だけを立てた左手を、馬岱の目の前に突きつけた。
「だから、貴様が丞相の懐刀として送り込まれたかも知れん事も、承知していた。送り込まれたのか、丞相が後で思い付いて刀として使いだしたのか、どっちが本当なんか解りはしない。丞相が俺を殺したがる理由は多分、俺が丞相だけならともかく荊州士大夫共と全然仲良くないから火種にしかならないと、余計な世話焼いてるんだろう」
「いつ、そう考えられたのですか……」
 魏延は左腕を戻して、しばらく顎に手を宛がって唸った。
「……そうだな、確信したのはさっき、貴様を殺そうとした時だな」
 心臓が肺腑が、冷えるように緊張して、足元から同様の反応が這い上がってきた。首が、頭を支える力を失くして、手に握った刀に目が落ちた。
 刀を握り締める。
 その小さすぎる動きに魏延は機敏に反応した。
 馬岱が握った刀を持ち直し、自らの喉に突き立てるより素速く、男の手のひらが刃を掴み、力尽くでもぎ取ろうとした。なぜ邪魔をするのだと、声には出なかったが馬岱は叫び、男から距離を取ろうと長椅子から立ち上がって、そこで足がもつれた。魏延も立ち上がり、握りしめた手を引っ張って踏み止まり、それでも刀を強く掴んで放そうとしない。
「止めろ、こんな無駄な――」
「私には!」
 魏延の言葉を遮って馬岱は叫んだ。裏返ってがさついた金切り声になった。自分の一番嫌いな声だ。落ち着かない、気の狂った女が暴れて喚いて我を通そうとする為の声だ。
「私には……!」
 魏延も、何か彼女の中に言葉にしにくい気持ちが渦巻いていると悟ったようだった。刀を奪おうとする力が少し緩んだが、手放してくれる気配はなかった。回廊に、馬岱の悲鳴を聞きつけた兵卒が慌ただしく、鎧を脱いだ姿のまま手に手に得物を持って、寝起きだというのに素速い動きで取り囲み、ゆるい殺気を纏って現れた。
「違うから……」
 回廊を囲む兵卒達に向けて、馬岱が精一杯の声で言った。何がどう違うのか詳しい説明は無かったが、兵卒達は主人の様子と声音で何かを感じたようだった。
「後で、あなた達には説明しますから……」
 そう一言付け加えて、馬岱は配下達を遠ざけた。
 中庭には再び、刀を奪い合う二人だけが残され、虫の声も呼び起こされたように戻ってきた。
 魏延が刀をもぎ取って、椅子の上に投げた。あ、と声が出るのと、かちん、と高い音を立てて刀が跳ねて、椅子から落ちたのが見えたのが同時だった。
 ほんの一瞬、次の動作を考えようとして生じた力の緩みを見逃されなかった。あっという間だった。この男には敵わないと、本能が頭の芯から囁いた。
 刀を握った形で固まったままの馬岱の指の間に魏延の手が割り込んで、指から手首までを大きな手で包みながら、柔らかく開いたり握ったりを繰り返して、じっくりとほぐしていった。
「貴様、何か迷っているんだろう」
 手を握りほぐし続けたまま、魏延が言った。刀を見送った視線を恐る恐る男に戻すと、今まで見た中で一番不快そうな表情をしていた。
「馬鹿か貴様は。自分が苦し過ぎるからって、安易に死のうとするな。貴様はそんなに弱い人間じゃないはずだろう。それとも決心が付かないのか? 俺はさっきまで本当に寝ていたのに」
 馬岱は小さく首を振った。「死地をかいくぐって生き延びてきた人間だから強い」とでも魏延は言って励ましたかったのだろう。けれども自分は実際は「馬超や蜀漢軍の傘の下で何とか生きて来られただけ」だ。「本物の強さを持つ」男の顔を直視するのに耐えられず、下を向いたら頬からぼろりと水が滴り落ちた。
 自分が泣いていたと気付いて、それから嗚咽が湧き上がって来て、止まらなくなった。
「貴方を、刺さなければならない理由が、丞相から、頂いた書面の、「蜀漢の為」ということの、それ以上は解らなくて……」
 魏延に手を引かれて、また長椅子に腰を落とした。自分が座ったのを見届けてから、魏延がすぐ隣に座った。男の左手がまだ、自分の両手に覆い被さっていて、その上にぱたぱたと滴が落ちた。泥と砂に汚れた男の手甲にいくつもの円が出来たが、すぐにそれもぼやけて見えなくなった。
「丞相は、私が、貴方に良く信頼されているみたいだから、貴方も、私には油断しているだろうと、そう、書簡に、書いていて。でも、信頼されているって、言う事の中身が、丞相と、私とでは、全く別に考えていたみたいで……。いいえ、そうじゃなくて、私が、私だけが、凄く、甘えていた、だけ、みたいで……」
 乱れ、動揺して喚いた末に出た本音を聞いても、今更過ぎたようで、魏延は動じず、黙っていた。彼の左手だけが所在なげに、緩く握ったり開いたりを繰り返していた。
「もう、誰かに付いて行って、誰かの、言う事を聞いて、……それが悪いって言いたいのではないんです、私は、そんな風な生き方で、今まで来てて、それが結局、こんな結果しか……」
 説明の為の声が出なかった。説明する為の言葉が頭の中から流れ出ていって、空っぽになってしまった。泣き声の隙間から辛うじて絞り出していた言葉はもう出てこなかった。
「……しにたい」
 乾ききったボロ雑巾のようになった頭から、やっとそれだけがこぼれ落ちた。誰かの後ろを精一杯ついて回るだけの器量しか無い人間には、語れる言葉も少ないものだ。
 本当に、もう何も出てこなかった。
 虫は鳴いているだけで何もしなくて良いなと、馬岱は思った。月も花も、勝手に咲いたり天を巡ったりしていれば愛でられるから羨ましかった。「人間」でありたくない気持ちがふつふつと沸いてきた。
「……俺と貴様とで、真剣に殺し合わないか」
 魏延が何か言った。
「真剣に、本気に殺し合わないか」
 俯いた顔を上げて、男の顔を見るとまた言った。
 この人は今何と言った。
「俺は最初は貴様の事を警戒していたし、実際に丞相の策だったとさっき解ったし、それに、貴様は、……何でそんな事を言い出すのか知らんが、死にたいだとか、そんな馬鹿げた事を言いだしやがる」
 ただの細い一本道だと思って歩いていたが、どこに続いているのかは知らないがそれよりも薄い獣道を見つけた様な、そんな気分だった。
「それに、俺だって死にたくはない。どうだ?」
 けれどもその獣道はどこに続いているのだろうか。猛獣の住まう洞穴だろうか。獣道に見えるけれど村人があまり使わなくなった裏道で、実はどこかの小さな山間の村に続いているのだろうか。それともやはり、山の中を彷徨った挙げ句、元の道に戻ってくるのだろうか。
 思案した。
 とにかく、「言われたのでやりました。どうか私を生かして下さい」と言わずに済むような道なのだろうか、これは、と思った。
「貴様が死にたいんなら手伝ってやる! そして、俺も貴様に殺されるんなら本望だ!」
 いきなり魏延が立ち上がって叫んだ。
 虫達が一斉に黙り込んだ。
「どうだ! ここまで言ってやっても、その気にならんのか!」
 思い悩んで黙り込んだ馬岱に、不満を破裂させたようだった。
「答えろ! 馬岱!」
 庭に差す月明かりが少しかげった。虫達はまだ黙っている。
 夕刻、魏延に殺されかけた。先程、自分で喉を突いて自害しかけた。
「……それも、いいかな……」
 三度目の正直とか言う言葉が頭をかすめて、随分投げやりな返事が滑り出た。魏延がそう言うのなら付き合おうかなという程度の考えだった。
「その前に、配下に一言命じてきます」
「何て言うんだ?」
「あなた達は朝起きて、生きていた方に従って下さい、と」
「ふん、そりゃ良いな」
 あっさりとした返事を受けて、馬岱は中庭を去った。事の成り行きを見守っていた配下達に短く命じ、荷物の中から二振りの剣を持って庭に戻ると、待ちくたびれたように大欠伸をした魏延が所在なげに立っていた。そして、馬岱の姿を認めるなり大げさな溜息を吐いた。
「貴様も馬鹿正直だな」
「なぜですか」
「配下達に、物陰で伏せって何かの拍子に俺を射殺せとでも言うかと思って聞き耳立ててたんだが、さっき言った通りの、朝方に云々、とだけ言ってさっさと得物持って出て来やがった」
 腰に手を当てたり腕を組み直したりしながら、馬鹿だ、とんだ馬鹿だ、と言って嗤う魏延は丸腰のようだった。あまり本気でもないようで、先程自ら言った言葉は一体何だったのかと訊きたくなる程、ぼんやりとした休憩のような空気が漂っている。
「文長殿こそ、得物は?」
 何の事かと訝る男の顔がすぐに変わった。口角が上がり、唇が横に引き延ばされ、僅かな隙間から歯が覗いていた。くつくつとした笑いが魏延の体を揺さぶっていた。
 非常に弱いが、作り物でも何でもない、魏延本来の笑い方だった。
「貴様、俺をあんまり馬鹿にするなよ?」
 ――稽古と同じだ。素手で何度でも殺してみせてやる――
 男はそう言った。
 馬岱は思わず後ろに飛んで間合いを作った。
 陣中で何度か手合わせして貰った時に感じた彼の動きの癖と、ただ一つ俊敏さだけを誉められた自分の体だけが頼りだった。

 

 秋らしい、突き刺す様に冷え込むのが身に堪える、太陽が昇ってくる前の時刻だった。
 急ごしらえの、二晩程度を過ごせれば上等な陣で魏延を待っている文官・武官の下に、物見の兵士が駆けつけて、殿軍が戻ってきたと報告した。馬岱が魏延を殺すのに失敗したのかどうかはさておき、その報せに彼等は慌ただしく、ある者は弓兵の配置を怠るなと叫び、適当な人員は出てくるようにと怒鳴りつけ、陣の前に走り出て殿軍を待ち構えた。
 遠くから馬群が近付いてきた。随分馬の歩調がゆったりとしていて、秋の乾いた草原がたてる土埃はとても小さかった。
 地平から陽の光が差し始めた頃にようやく、馬群が陣に到着して、先頭の鹿毛の馬の男が何かを抱えて降りた。
 足元も覚束ない程に疲弊し、何があったのか知らないが、誂えた鎧も何もかも、どこもかしこも傷にまみれた魏延が、深緑色の布で馬岱を抱きかかえて近付いてきた。
「右脇の肋と腕を折ってしまった。それと、腑もどうかしてしまったかも知れん。黒っぽい血を吐いた」
 挨拶もそこそこにそう言って、しっかり診てやってくれと付け足し、魏延は馬岱の体を適当な兵士に押しつけた。
 魏延が纏っていた緑色のマントに包まれた柔らかな体が、支えられずにくたりとなった。鎧はおろか、手甲に至るごく簡単な防具まで脱がされたと見えて、厚手の布はほとんど裸と同じ形になっていた。魏延は診ろと言うが、死体なのではないかと思える程、血の気のない白い肌色をしていた。
 しかし魏延の血の気も、馬岱と良い勝負だった。肌は日に焼けているからそうとは解りにくいが唇に青みが差しているし、歯の根が噛み合わずに細かく震えていた。
 兵士達が馬岱を介抱しようとして、何かに気付いたように声を掛けてきた。
「将軍、馬将軍がお話があるようですが――」
「黙れ! さっさと貴様等は下がらんか!」
 雑魚どもには用など無いと言わんばかりに声を荒げて睨み付け、どこかへ失せろと鬱陶しそうに腕を振った。
 兵士達が気圧されて逃げるように立ち去るのを見送ってから、魏延は文官・武官達に向き直った。荒く不安定な息を繰り返し、土気色をした死に囚われた顔色とは裏腹に、どこか晴れ晴れとしているような吹っ切れた表情だった。
 場の空気にすぐにこれを殺せと言う声と、放っておけと言う声が密やかに起こった。
「別に誰かに聞いて欲しくて言う訳じゃないがな」
 そんな陰口が聞こえない訳ではないだろうが、そんなのは些細な事だと言いたい様に、虫の音よりも小さな雑音を無視して、いつもの口調で魏延が口を開いた。
「一つだけ頼みがある」
 男は言った。頼むとは言っているが、誰も、承知したと答えなかった。
「馬岱を死なさんでやってくれ。……ああ、それとちゃんと誉めてやってくれ。後、出来たらで良いから位階は俺のをそのまんまやってくれないか。ご褒美だ」
 しまった、三つになってしまった、ととぼける男と対照的に、本当にそれだけしかないのかと、もっと別な望みがあるのではないかと誰かが言っても良さそうなのに、これもまた皆黙ったままだった。
「頼む」
 そう言って、魏延が拱手して頭を下げた。土気色を通り越して白くなった手指が細かく震えていて、放っておけば勝手に死ぬと、無言で告げていた。
 拱手を解き、頭を上げた魏延は踵を返してふらふらと歩いて、相当難儀な様子で鹿毛の馬に跨った。一緒に帰ってきた馬群に何かを言って回っている様だった。
「ど、どこへ逃げるつもりだ!」
 誰かのしわがれた叫びに反応する気配もなく、背を向けて何も答えずに、並足で男は歩き続けた。馬を急き立てようとする様子もなかった。付いて来た馬群達はただ、魏延を見送ったまま立ち尽くしていた。
 追っ手を差し向けろと喚く声がした。その間にも枯れていく草を踏み荒らし、鹿毛の馬は歩き続けた。
 まっすぐに、当てがある訳ではないと言う事を言外に示すように。
 「どこか」へ。
 何里も離れた地平に消えるまで、ただただ真っ直ぐに、歩いていくつもりのようだった。


 逃げるあてが地上のどこにもないのは知っていた。自分の行き先は「あの世」だ。ただ、連中の前で弱った様子を見せて、ザマを見ろと嘲笑われるのは腹の底から嫌だった。だからもう一度馬に乗った。
 半日は長かったと、草原に仰臥し、珍しく霞のかかっていない青い空を見上げて魏延は思った。そして、ここまで自分がしぶといとは思いもしなかったと、我ながら感心した。太陽がどこにあるか首を巡らせて時刻を探ろうとして止めた。意味がない。鹿毛の馬がうろうろと、途方に暮れた様に自分の周囲を巡っている。
 昨晩の馬岱との殺し合いをうすらぼんやりと考える。
 蹴飛ばされても殴り倒されても向かってくる馬岱を、何度も叩きのめしてやった。馬岱が振るう刃が時折鎧や飾り羽根を削り、真っ赤な地毛が何度か散り、肌に大して深くない傷をなで刻んだ。何度も何度もやったから数えないでいたけれども、相当馬岱も粘っていたと思う。何度来たか解らない馬岱の剣の片方を弾き飛ばす。馬岱が体格差を利用して背後に回り込もうとするのを蹴り飛ばす。馬岱が吹き飛ぶのと、右脇の下に痛みを感じたのが同時だった。鎧の隙間の筋を狙った一撃だった。初めて負った「傷」だった。立ち上がった馬岱が息を荒くしながら剣を拾う。切っ先がほんの少し折れている。
――心臓は左脇だろう
 そうぼやいて脇に刺さった切っ先を抜き、草の中に投げ込んだ。肋と鎧に阻まれて、致命傷にはならなかった様だった。そうして傷を看ている間に、いつの間に回り込んで拾ったのか、馬岱の手には二振りの刃があった。息が上がり、目が据わり、殴られっ放しで痣と鼻血に染まった馬岱には限界と言うより、死が待っている様にしか見えなかった。
 哀れだった。自分の口から出任せに、腹立ち紛れに言った殺し合おうという提案に、馬岱は乗ってくれた。そうすれば楽しい事が起こるかもしれないと信じた様に。
 馬岱が動くのを待っているのがまどろっこしくなって、魏延は踏み込んだ。左の拳に勢いと体重を乗せ、間合いを一気に詰めた。慌てて細身の双剣で受け止めようと構えた馬岱が悲鳴を上げて、先程まで一緒に座って何かを語らっていた石の椅子にもたれ掛かった。痛みに耐えようと歯を食いしばり、折れた右腕と脇腹を庇いながら喘ぎ、石の座面に血を吐いた。馬岱が取り落とした二振りの剣が石畳にぶつかって高く短い音を立てた。
 悶えて苦しむ馬岱を見下ろして、何だか違う、と思った。こんなに苦しむ馬岱は見たくない。だから、何だか違う。胡蘆谷の責で鞭打たれて苦しむ馬岱を見てうんざりしたのを思い出して嫌になる。
 首を折ろうと思った。素手の自分に、この有耶無耶とした戦いを早く終わらせられる行為はそれだけだ。馬岱はあまりにも従順で懸命で一途で、そして見るに堪えない程に哀れで独りぼっちだった。可哀想だった。
 屈み込み、嘔吐いて震える馬岱の首に右手を当てた瞬間、馬岱の体がぐるりと回って、右の脇腹に何かを突き立てた。そのままの勢いで仰向けになって倒された自分の腹の上に、馬岱がいた。
――でもね、文長殿、肝は右脇です
 痛む所に、馬岱が自害しようとした、川魚の様な小刀が左脇に刺さっていた。柄に滑り止めの布を巻いただけの簡素な作りの短剣の、刃の部分が見えなかった。刃を抜けば、あっという間に自分は死ぬと言う事だけは解った。鮒に例えた小刀の事を、魏延はすっかり忘れていた。
――肝からも、血が、いっぱい出ます
 馬岱の言った通りだった。短剣が刺さったままの傷口から、じわじわと血が流れ出した。
――私の。……、……勝ちです
 腹から胸へとずり上がって顔を伏せたまま、馬岱が言った。そしてまた、折れた右腕を庇いながら魏延の顔を覗ける位置まで這い寄ってきた。
――文長殿、どうして剣でとどめを刺さなかったのですか
 魏延に殴られた際に取り落とした剣を指しながら問う馬岱に、魏延は答えなかった。剣は持ち主の体を守りきれずに、鞘に収まらない程に折れていた。
 なぜ、を繰り返す彼女を無視して、自分がまだ動けるのを確認して、馬岱の部下達を叩き起こした。馬岱の手当をして、楊儀達の待つ陣に出発した。貴様の勝ちだとだけ言ってそれきり、馬岱とは言葉を交わさなかった。馬岱は何度も幽かな声で魏延を呼んだ。答えを欲しがる馬岱に、魏延は黙り続けた。
「……俺は最後まで素手でやるって決めたからだよ、それだけだよ、馬鹿」
 一度決めた事を曲げるのも、嘘を吐くのも自分の信条に反する。それに、負けた自分が彼女に今更色々口応え出来る立場ではないと思ったからだ。
 なんだか、手足がある気がしなかった。それどころか、昼前だというのにどんどん空が暗くなっていった。血を無くし過ぎた所為で雪の中に倒れ込んだ様に寒い秋の草原のただ中で、魏延は馬岱には言えなかった言葉を吐いた。







後書き
最初はヤンデレた馬岱が魏延を殺そうとしてやっぱやめた、軍人じゃない体にしちゃえばいいじゃないと気づいて滅多刺しにしてしまうお話でしたが、出来が悪かったのでちゃんと書き直そうとしていたら上記の目的を達成できない話になってしまい、ヤンデレパートは別に切り離して、ちょっと中途に殺し合う話にしました。
尚、先日の交地で発行した冊子版「何も言わないで」に収録している物と内容は同じです。

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