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その赤の名は 劉備編「猫」前

注意書き

SR魏延が結構粗暴な性格の女の子な小説の連作集です。こちらは前編です。
今回は「もしも新野で二人が出会っていたら」というifの基、書いてみました。


以上の事を踏まえて、ご了承いただける方のみ「つづきはこちら」からどうぞ。
フォントサイズが大きくなります。

 春の野原に、劉備は大の字になって空を仰いだ。黄色く白けた、なめし革のような色に晴れ渡った空に太陽がぼんやりと光っていた。西の果てから飛んで来て、大河を、実った麦のような色に変える砂が今日も飛んでいる。
 今日は朝から晴れていたから久し振りに関羽と張飛の二人を誘い、遠乗りに出かける事にした。二人ともそれを待ち望んでいた様で、声を掛けた途端に全てを投げ出して馬と長物と、狩りでもするつもりなのか弓矢まで持ち出して来たのには苦笑した。
 毎日邸内で顔を合わせてはいるが、久し振りとか、元気かと冗談を叩き、時々馬を競わせ、時に長物の打ち込みの真似事をやりながら、新野の街から離れた雑木林が見えてきた時、張飛が兎を狩ってくると言い出して、関羽がそれに付いて行った。
 劉備の馬は二人を見送った途端に立ち止まって、その辺の若草を食べ始めた。
 馬が休みたいのなら俺もという気分で、劉備も下馬して地面に寝転がった。数日前に降った雨のお陰か小さな草が沢山芽吹き、ほんのりと湿った土と相まって、黒と緑のまだら模様の絨毯の様だった。
 春だ。ここに来るまで色々な花がいくつも咲いていた。ほんの数日前までと違って陽射しが程良く照りつけて体の芯まで温まる。全く以て心地の良い時期だ。木々が実る秋も捨て難いが、花と山菜が楽しめて、そして何より冬の寒さなど幻だったと思わせてくれる春も良い。河北では麦が実っているかも知れない。それとも、まだ寒さは厳しいだろうか。綿入れが必要だろうか。
 まどろみながら二人の帰りを待っている内に、街中で猫が雀を狙っているような気配を、劉備は僅かながらに感じた。馬が何かに気付いたらしいのが切っ掛けだったが、気性が荒く、大した事には動じない奴だから、自分自身でその小さい気配を正確に捉え、気付くのが遅れた。
 猫の様な気配だから、途轍もない獣や大勢の野盗などではないだろう。猫に喩えたが、本当のところはただの子供だろう。戦禍に家を失い、独り生き延びようとする子供が自分なりに気配を殺して近付いているつもりのようだ。風向きが変わって若草と土の匂いの中に、汚れに塗れた人間の匂いが僅かに混じった。草をそっとかき分ける音。
 劉備も、俺はただの雀じゃねえぞと思いながら、相手に備えて傍らに置いた双剣を手繰り寄せ、鞘に添えられている短剣を手にした。猫はそれには気付いていないようだった。こいつを狙うんだという気持ちに逆に支配されていて、劉備がわざと立てた音にも注意を向けていない。草をゆっくりと押しのけて進む音。
 雲雀が高く鋭い声で鳴いて飛んでいった。
 顔の近くの、麦に似た葉を伝っててっぺんまで辿り着いた赤いてんとう虫が、これ見よがしに羽を広げて白い空へ飛び立った。
 じわり、じわりと、息をするのもこらえるように猫は慎重に這い進んで来て、やがて止まった。獲物が雀ではないという事に気付いたのだろうか。それでも、諦めて帰ろうとせずにこれと定めた物を仕留めようと粘る猫に、劉備は感心した。ほら、早く来いよと、眠気と戦いながら、内心では猫が飛びかかりじゃれついてくるのを待っていた。
 そうして待っても、猫は動かなかった。
 何度か気付いてない振りをして見せても動こうとしない猫に、劉備はだんだんじれったくなってきた。
 胸の中の気を吐き出して、細く深く、息を吸って、止めて、
「ふんっ!」
 気合一閃、劉備は飛び起きるなり猫の気配のする方へ短剣を投げ、双剣を構えた。腕を振る力も体勢も充分ではなかったが、虚仮威しにはなったようだった。
 短い叫び声と一緒に、見つかってしまったので仕方ないといった感じに猫も飛び上がり、正体を現した。
 晴れた、白い空の下で赤い頭が目に入った。広くしわ一つない額の下の太い眉毛も瞳も赤かった。子供だと思ったのは間違いで、背の高く痩せ気味の、二十前後の年頃の様で、青年とも少年とも見られる外見だった。頬はこけて垢にまみれ、泥と埃で汚れた衣も荷物も粗末で、菜っ葉も切れなさそうな剣を右手に構えていた。膝丈程まで伸びた若草でよく見えないが、左手には先程劉備が投げた短剣が握られていた。
 けれども、「猫」という見立ては当て嵌まっていた様だった。路地裏で残飯かすを漁って牙を剥いて生きる野良猫によく似た顔つきで、鮮血のように赤い眼玉だけが餓えに餓えてぎらついていた。
「良い動きだ。飯、おごってやるよ」
 間合いを保ち、双剣を持った手はそのままに、劉備は相手を懐柔する相好を作って、多分相手が一番気を緩ませるだろうと思う事を言ってやった。
「要らん!」
 赤毛の猫は吼えた。十を少し過ぎた位の子供の様に声が高かった。
「じゃあ、何が欲しい?」
「あんたの馬」
「ああ、それはやれないな」
 猫の左手が大きくしなり、短剣が投げ返された。大きすぎる動作だったし、難なくそれをかわすと同時に、地面の方から跳ね上げる様に斬りつけてきた猫のなまくらを左手の剣で受け止め、右手の剣の腹を猫の首筋に当てた。
「はい、死んだ」
 猫の顔に恐怖らしいものが浮いたのはほんの一瞬だった。遊ばれていたと思ったのか、激しい怒りに切り替わった。そんな表情の変化よりも、劉備は赤い瞳の方が気になった。目玉を強かに打つと白目が真っ赤になるのは知っているが、瞳が赤い人間は生まれて初めて拝んだと思う。
 なまくらで劉備の左手をはね飛ばし、首をねじって刃から逃れた猫は、再び劉備と間合いを作った。劉備と自分の力量の差を見ても尚、活路を見出そうとして、諦めずに荒い息を吐く様は、まさしく野良猫だった。
「何でまた、馬が欲しいんだ」
「金になるし、飯になるし、遠くに行ける。今は乗れないけど、一丁欲しいんだ」
 乗れないくせに馬が欲しいと言い出す猫に、可愛げを感じた。欲しがっている理由も順序が逆だろうと指摘したくなった。しかし、時間がどれくらい経ったのかよく解らないが、そろそろ関羽と張飛が獲物を携えて帰ってくるかも知れないと思うと、この修羅場は収めておきたかった。特に、張飛が何をしでかすか解らない。
「あのー、俺の兄弟そろそろ帰って来そうだから、こんな殺気立った状態はもう止めようや」
「そんな手には乗るもんか!」
「俺等に付いてきたら、飯だけじゃなくてしばらく屋根も貸してやるよ」
「そんな甘い物言いなんか聞き飽きた!」
 ああ、まさに野良猫だなと感想を胸の内で呟くのと、猫の後方の藪に関羽が居るのを認めたのが同時だった。大男の癖して音一つ気配一つ発さず、岩のように立っている関羽に、殺気立って目の前の劉備にしか集中してない猫は、全く気付いていない様だった。
「本当に俺の弟やばいから、話が通じないから」
 猫の後方の関羽が身振りで大雑把に、張飛が先にそちらに向かい、後で自分も出て行くと話しかけるのを見ていよいよ本当に、猫の身が心配になってきた。
 ちょうどその時、猫の左腕と肩を繋ぐ辺りに矢が立った。猫が、つんのめるように膝を突きかけて、踏み止まった。
 猫が目を見張って、一方の劉備は自然と、矢の飛んできた先に目を向けた。
 のどかな昼の光と空気の中に、研ぎ澄まされた刃のような気配が一つ立っていた。片肌を脱ぎ、無言で次の矢を番えて猫に狙いを定める、目つきの鋭く若い大男が馬に跨ってこちらに向かって来ていた。鞍から縄でくくられて血抜きをされた狐や兎が、馬の歩調に合わせてぶらぶらと揺れていた。
「次は、あんたの頭だ」
 どんな動きをされようと外さない距離まで近付き、大男が言った。
「弓も巧くなったな、翼徳」
「大兄者、そんな事を言える場面じゃないだろう」
 張飛は猫に狙いを定めたまま、厳しい声音でそう言った。何人たりとも劉備には引っ掻き傷一つ付けさせないという殺気が、湯気のようにその肌からゆらぎ、全身を包んでいた。
「な、俺の言った通りだろう?」
 なまくらを握りしめ、構えたままの猫の顔に初めて驚きが表れた。そしてわずかに恐怖も伺えた。殺されるかもしれないと、怯えていた。だが、それを押さえつけ、隠しそうと精一杯に踏ん張っている。
「左様、大人しく降伏されるのが一番、賢いやり方だと思いますぞ」
 猫の背後から関羽が、張飛から預かったらしい蛇矛と自分の偃月刀を両肩に載せ、泰然とした様子で出てきた。猫は振り返らない。文字通り立ち竦んで、振り返る事すら出来ないのだ。関羽は長物の間合いまで猫に近付き、馬に跨ったまま偃月刀を突きつけた。それが合図だった様に張飛が弓を下ろした。
 包囲網を狭まれて動くことすらままならない猫は、関羽と張飛とを交互に見ながら、驚きから恐怖へ、そして諦めへと表情を塗り替えていった。
「まずは、その剣を捨てなされ」
 猫の顔にはもう、先刻まで劉備に見せていたような威勢の良さは無かった。猫の目はいつの間にか光の加減か、それとも気持ちの変化からか、枯れ草のような色に変じていた。関羽の言葉に促され、握る力を失い取り落とすように、猫は剣を手放した。剣が地面に倒れるより早く、関羽がそれを蛇矛で弾き飛ばすのを見て、張飛が、俺のなんだからもっと丁重に扱ってくれと抗議した。剣は藪の中に飛んで見えなくなった。
 劉備は猫の今の表情を知っていた。強過ぎる者に蹂躙されるしかない、石ころの様に蹴られ続ける一番弱い者の顔だ。蹴られて蹴られて、相手が飽きるまでただ成されるがままになるしかない立場の人間の顔だった。
「畜生……」
 矢傷の事も忘れたように俯いて、猫が悔しそうに呟いた。もう、どうしようも無いという絶望感しかない声だった。猫の目線を追ってその足元を見ると、爪先の破れた皮の長靴が惨めったらしく汚れていた。
「腹が減っているんだろうし、長旅で疲れただろ? 俺の所に来いよ。翼徳のやった傷の手当てもしなきゃ――」
「要らん。そんな面倒な事より殺るなら殺れよ」
 俯いたままそれだけだけ呟いた。矢の刺さった部分から滲んでいく血は最初は丸い形だったが、次第に下に伸びていった。結構深く刺さったらしく垂れ下がる血が止まる気配はなかった。
「少なくとも、怪我は――」
「要らんと言ってるだろ! 俺は、どうせここで野垂れ死ぬしかなかったんだ!」
 怒鳴り、劉備の手を払いのけた猫の襟首を、張飛が捕まえて馬上に引き上げた。
「大兄者が、わざわざお前に世話してやろうとしてるってのに、何て事しやが――」
 猫の大腿を開かせて馬に跨らせようとして、あ、と張飛が声を上げた。
「兄者、大兄者。こいつ、女だぞ」
 ほら、と驚きと興奮を隠せない声音を出しながら、張飛は大開きにした猫の下腹部をなぞって見せた。へその上の辺りから腹の丸みに沿って、足の間に大きな手がするりと滑り込んだ。内股を掴んでは柔らかいと言って驚嘆し、その手を再び上に持ってきて、胸から鳩尾に好き勝手に触れて包帯でも巻いているのかと、暢気に声を掛けていた。
 関羽と劉備には、張飛に好き勝手に撫でられる猫の表情がどす黒く変化していくのが見えた。血の気が上って耳まで赤くなり、眉根を寄せ歯を剥き出しにして、何も持っていない両手が震える程に握り固めていくのを見るなり、関羽がまた偃月刀を突き付けた。
「弟に何をするつもりだ!」
「済まん、翼徳に悪気はないんだ、許してやってくれ!」
 劉備と関羽の様子を見て、張飛もぎょっとしたようだった。猫に触れる両手を放した隙に、猫も偃月刀の刃から逃れながら不格好に下馬した。着地に失敗し手足がもつれて転んだが、誰もそれを笑えなかった。
 転んで落ちたまま、無様に伸びた手足を縮めて猫は動かなくなった。
「……もうあんたらどっか行けよ、俺なんか放っておけよ」
 馬の真下に人間が寝転がっている状態は危険だと思ったのか張飛がそこを離れる。劉備が跪いて猫に声を掛けた。
「すまん、許してくれ。詫びと言っては何だが、……いや、好きな時まで居て良いから――」
 猫が跳ね起きて、劉備に殴り掛かった。劉備は力の入っていない拳を受け止めながら、関羽と張飛に手を出すなと叫んだ。残った片腕で来た拳も難なく受け止めた。矢傷を痛がる様子はない。劉備の手を振り払って、滅茶苦茶に殴ろうとしてまた止められる。猫はそれを何度も繰り返した。やけくそで力は全く入っていないが、それでも激しく拒絶の意思を叩き付けてきた。
 猫の眼がさざれの水晶のようにきらきらと光っていた。出会って一刻もしないのに、ころころと表情の変わる奴だと劉備は思った。
 昔何かの屈辱を受け、それが張飛の無邪気な戯れで思い起こされて激しく怒っているようだった。そんな女は今時珍しくはないと思うが、ここまで苛烈な奴は滅多に居ないだろう。
「こんな怪我じゃいずれ死んでしまうぞ」
「あんた等に付いて行くよりマシだ!」
 拳を受け止めた劉備の手を振り払って誰も居ない方へ猫が這って行こうとするのを、手首を掴んで引き留めた。逃げる猫が哀れだし、先程の張飛の非礼もちゃんと詫びたかったから、どうにかして捕まえたかった。
「あのさ、俺を親兄弟か何かだと思って、ちょっとだけでも頼ってみなよ?」
「そんなのとうに捨てた!」
「そんな怪我で、独りっきりでどうやって夜を過ごすんだ?」
「うるさい!」
 捕まえられた手首を振り解こうと腕を振り、近付こうとする劉備を蹴立てて遠ざけようとする猫は、どうにも懐柔するのが難しそうだった。本物の野良猫ならしばらく餌をやっていれば懐くだろう。人間でも、孤独感やひもじさについて説いてみせれば思わず付いて来るだろう。しかしこの赤毛の、背が高く痩せた女は人間のくせに野良猫よりも扱い難かった。彼女が本当に信用してくれる条件をこちらから出してやれば警戒心を解す事は出来るはずなのだ。なのにそれが出来ない。何を言っても無駄だった。
 揉み合う劉備と猫を見かねたように、張飛と関羽が猫を取り押さえた。関羽が猫を俯せにして跨って矢を抜き、襟を広げて傷を看て、頭を持ち上げて頭突いたり噛みついたりしようとするのを、張飛が押さえた。それでも尚、触るな、放っておいてくれ、と足をばたつかせて叫び続ける猫の背負っていた荷物を関羽が解いた。
「何も入ってないぞ……」
 解かれた荷物を拾った劉備に猫が言った。暴れ疲れたのか動かなくなった猫の額に汗が浮いてきて、泥と混じって黒い水玉になっていた。
 質のよくない薄い羊皮の、使い古されて所々に穴が空いているのを乱雑に縫って塞いだ袋の中は小さめの火打ち石と切れ味の悪そうな小刀しか入っていなかった。木の実も山菜もなかった。火打ち石と小刀を取り除いてひっくり返しても、縫い目に溜まった塵屑がぱらぱらと降っただけだった。
 覗いてみると空の袋の中には墨で大きく、「誰も許すな」と下手くそで読み難い字で書いてあっただけだった。この文言がもし、猫の書いた物だとすれば、異常に攻撃的な様子の理由も何となく解った。
 この猫は、路地裏の野良猫よりも悩ましく、血なまぐさく、常に腹を空かせているばかりでなく、安心して眠る場所一つ得るのも難しい人生を、何歳頃からかは知らないが、独りで歩いてきたのだ。そうして得た経験から、あの言葉を皮に書いて袋にし、持ち歩いていたのだった。書いた当初は決して忘れない為に。そして今は再確認する為に。
 袋の中は空っぽではない。猫の人生が詰まっていた。だから、それを背負った以上は劉備達に対しても頭を下げる真似なんかしないと決め、拒絶し続けたのだ。
 むう、という唸り声に気付いて顔を上げると、関羽と張飛が傷を指してそれぞれ言った。
「傷が骨の辺りまで達しているようです」
「よくこんなので暴れられたよな……」
「放っておけば本当に死んでしまいます。早く新野に帰らねば」
 そう言うが早いか関羽は猫を抱き上げようとして、その手を弾かれた。
「死んだら死んだで、天命だったんだよ。さっきから放っとけって言っているだろう」
 投げやりな調子で猫が言い、天命という言葉に張飛も関羽も呆れるやら困るやら、手の施しようがないという顔をした。
「……しゃあねえ。あんたの天命、変えてやろうじゃねえか。雲長、そいつを連れて行こう。翼徳は獲物の事もあるし、先に帰って準備をしていてくれ。医師を忘れるなよ。面倒かもしれないけれど、空いている部屋を一つ用意しておいてくれ」
 劉備の指示で二人はめいめい動き始めた。張飛はただ頷いて馬に鞭を打って走り出し、関羽は猫の傷に障らないように抱きかかえながら馬を呼び寄せた。劉備も馬を呼び跨って、猫を抱いた関羽と一緒に走り出した。怪我をしている人間を乗せて走るのは初めてではないが、慎重に、大きく跳ねるような地形の無い所を選んで進んだ。
 猫は抵抗しなかった。
「おいあんた、さっきまでの威勢の良さはどうしたんだ?」
「……あんたの天命って口車に乗ったんだよ! 元はと言えば俺が言わなければ何にもなかったはずなのに、こんな事になるとは思わねえよ!」
 関羽に抱えられた猫に声を掛けると、やけくそな返事が返ってきた。関羽が暴れるんじゃないとたしなめる。猫は口先だけはまだ元気なようだ。
「兄者が随分自信たっぷりに言うので、賭ける事にしたようですな」
 関羽の軽口に笑いながら馬を寄せて猫の表情を覗き込むと、随分くたびれ果てた様子で、目玉だけを動かして劉備の方を見返した。睨んでいた。体のどこもかしこも力が抜けていたが、目玉だけででも凄んでみせる様子は、猫の腹の奥底で燻ってる「まだお前達に気を許したわけではない。屈したわけではない」という意志を見せつけていた。瞳は枯れ草のような色だった。赤くなかった。
 あーあ、と猫がわざとらしい程に精一杯大きな声で溜息を叫んだ。何もするんじゃない、体力を温存しろという関羽の忠告も無視して、一層大きな声で猫は叫び続けた。
「兄者兄者って、いい歳こいた大男どもが餓鬼みたいに劉備様ごっこしてやがんの!」
 猫の言葉に劉備と関羽は思わず顔を見合わせた。
「……まあ、気持ちは解らんでもありませんな」
 そうだなと言葉を濁しながら、致し方のない事だろうと劉備は思う。講談を生業とする者達が「義侠に篤く、不正を糺し、天下の民草の為に平原を駆ける男達の話」を面白おかしく、無責任に尾鰭背鰭を付けて喋りまくっていても不思議ではない。関羽と張飛が戦場を歩くだけで死体の道を築かれるとか、操り人形同然に天子様を扱う諸悪の親玉である曹操を暗殺しようとしたりと言った噺が主だろう。そういう地平の遠い向こうで起こった、想像も付かない噺の次には、隣の城で私腹を肥やす塩商人や役人を懲らしめただの、近頃大人しくなったどこそこの山賊の平定に関わっていたという身近な噺が続くのだろう。
 劉備もこっそり立ち聞きした事がある。大体の講談師によれば、劉備は腕が常人より長く、また耳たぶも肩に付く程長いとか、人間扱いされている気配がなかった。長兄なのだから、関羽張飛に劣らない大男であると断言する者もいた。背が高い事と福耳なのは認めるが、断じて、耳たぶは肩には届かない。腕も普通である。
 陽はまだ高く、ようやく傾きだした程度だった。夕食には充分に間に合うなと思いながら、劉備は新野までの道程を思った。凹凸の少ない、文字通りの緑がどこまでも続く。その中に白や黄、赤や青が点在していた。
 関羽が猫に何か声を掛けて、少し馬の足を速めた。何か短いやりとりがあったらしいが、急ぎたい様子なので何も訊かずに劉備もそれに続く。
「ごっこ遊びがノリ過ぎて、懐の深さ見せつけようとかしちゃってんの! ……得体の知れない奴を家に上げようとかしてんの!」
 ふと、猫は読み書きが出来る様だという事を思い出し、劉備は訊ねた。
「そんな事より、字は書けるか? 読めるか?」
 唐突な質問に、猫は一瞬面食らったようだった。
「……馬鹿にするな! 出来るわ!」
「うちには幾つか兵書もあるんだが、読まないか?」
「そんなの、読んで何になる!」
 猫にどれだけの知識や技量があるのか今の段階では量れないが、足りない兵書や地図が必要となったら樊城や襄陽まで行って借りれば良いと思った。
「戦は将同士の一対一で決まるものじゃない。碁の様に平面で起こるものでもない。様々な人間の動きや気持ちと土地と天気が絡み合って起こるんだ。それに、戦いは一番前で槍を構えたり馬に乗ったりする奴等だけでやるんじゃない。後ろで飯作ったり、怪我を治したりする奴等全員を含めて戦なんだ」
「……だから?」
「馬や武術だけじゃなくて、そう言うのもやってみないか。戦の駒になるんじゃない。戦を動かす人間に、将になるんだ」
 猫の返事はなかった。先程までと打って変わって反応が鈍い。
「どうしたんだ? ……その」
 劉備は猫の名を知らない事に、やっと気付いた。関羽が劉備の頭の中を大体読んだように答えてくれた。
「兄者、傷の様子が良くないのと、どうやら馬に酔ってしまったようでして、早く着かねばなりませんな。……赤いの、少し我慢しろ。新野はもうすぐだぞ」
 励ます関羽の声に、赤毛の猫は答えなかった。


 新野の屋敷に着いた時には、猫の顔から血の気は失せていた。乾いた泥の様な顔色になりながらも関羽に肩を借り、気力で何とか下馬して歩こうとした傍から膝が折れ、地面を掴めなかった。抱きかかえられた方が早く休めるぞと言う関羽と劉備の提案も退けて、ほとんど意地で、ゆっくりと歩みを進めた。関羽がこの者はえらく扱いにくいですな、と呟いたのも聞こえていないようだった。猫は下を向きながら、嫌でも目に入る覚束ない足取りを呪う様に愚痴をこぼした。その声も関羽の呟きより小さく、傍で介添えしている劉備にも何と言っているか聞き取れない程だった。
 屋敷で劉備達の到着を待ち構えていた面々が、この成り行きを不安そうな顔をして見守っている。張飛と医師と、妻達と端女の幾人かであった。
「……張ちゃんからは怪我だけって聞いていたのに、この子とっても汚れてるじゃない。湯浴みをさせてあげなきゃ。皆、早くお湯を沸かしましょう」
 その中でまず、劉備の妻の甘夫人が声を上げた。怪我の具合は既に聞いていたが、これの事は聞いていないといった感じで、様子を見るなりすぐに端女達にあれこれと指示を飛ばした。
「手当がどれくらいで終わるか分からないけれど、ぬるま湯でも良いから、早く――」
「甘、ちょっと待ってくれ、湯を沸かすのはやって貰ってて構わんが、相談がある」
 関羽が医師に何やら言っている横で、劉備も甘に言う事があった。多分、関羽が医師に告げたのと同じ事を言わなければならないかも知れない。
 とうとう力尽きて倒れた猫を抱え上げて、関羽と医師が屋敷の中に駆け込んで行った。
「甘、もしかしたらもう聞いてるかどうか知らんが、さっきの赤毛だがな、……娘なんだ」
 さぞかし驚くだろうなと思った。案の定、甘は猫が連れて行かれた方を見て不安そうな顔をした。次いで目を細めて、ふっくらとした、艶やかな唇から綿のような笑みをこぼした。
「そんなの、顔立ちを見れば何となく分かりますし、張ちゃんはちゃんと言ってくれましたよ」
「なんだその反応は、もうちょっとびっくりして貰えると思ったんだが……」
 張飛の報告を聞いていなかったら、端女と夫人達を集めたりなんかしませんと、甘は半ば胸を張って言った。
「劉ちゃん達も、あの子本人も、あの子の事を武人とか男の子だとか思ったりそう扱ったりしても、体は女の子なんだから、私達がちゃんと面倒を見るんだからね」
 劉備だけでなく関羽や張飛も、妻達や下働きの女達までの一切を一人で取り仕切る彼女の宣言には何となく逆らい難かった。実際、彼女は口先だけではなく率先して働いたし、その指示は的確で、効率も良かった。台所や洗濯の場を戦場に例えるなら彼女は名将と言っても良いだろう。
 猫が気絶している間に傷の手当ても湯浴みも着替えも済ませた。劉備の指示通りに一部屋をあてがってやる事は出来なかったが、物置に簡単な寝台を組み立て、椅子や机を持ってきた。ほぼ東向きだから朝方は眩しいと思うが、窓も付いているから、光が全く採れないという訳でもない。ただ、人間があまり出入りしない所だからかび臭い。
 手当も湯浴みも済ませてから猫がはっきりと目を覚ますまで、一日半程かかった。
 東向きの窓から僅かに入ってくる西日と、用意した蝋燭の明かりの下でいつの間にか目を開き、まばたきをしているのを部屋を覗いた端女が見付けて、甘に告げた。皆で集まって騒ぐ事でもなかったから、劉備と甘の二人だけで部屋に行った。
 真夏用の蓙や使っていない農具や竹かごが隅に押し込まれた部屋に足を踏み入れると、寝台の人間がかすかに反応した。布団代わりの丈の長い綿入れが動いたように見えた。
「調子はどうだ。医者が帰ってしまったから代わりに俺が訊くけど、……えっと、傷と体と、腹具合について答えてくれ」
「……痛くて、力が入らなくて、物なんか食えねえよ」
 そう言って覗き込んだ猫の目つきは、弱ってはいるものの雑木林で出会った時と同じで、他者への不信と餓えと疲れに満ちていた。口先だけで答える様子からして、体に力が入らないのは本当の様だった。湯浴みで汚れを落とした猫の赤い頭は、一層その赤さを強調していた。
「そんな事より、俺の荷物全部どこやったんだ。それと、餓鬼が居るみたいだけど俺のサラシを切り刻んでおしめになんかするなよ?」
 猫が寝ている間に、彼女の荷物の内、体に巻いてたサラシや革鎧は洗った。衣や長靴も修繕しようとしたが、傷みが酷いのでどうしようかと思っていたところだと甘が答えた。けれども、小刀と火打ち石を入れていた袋は劉備自身が勝手に切り刻んで竈に焼き捨てた。猫に、ここに居る間だけでも周囲の人間を許して欲しかったし、出来る事ならあんな言葉を刻んだ過去と訣別して欲しいと願ったからだった。継ぎ接ぎにまみれてまで後生大事に持ち歩いた袋だから、絶対に後で何か問い糾されるだろうと思ったが、猫が喚きだすまでは黙っておこうと心に決めたし、それは甘にも伝えておいた。
「あの」
 劉備の背後から成り行きを見守っていた甘が猫に声を掛けた。
「えっと。……何か、食べたいのがあったら遠慮無く言ってね。最初はお粥しか体が受け付けないと思うけれど、春だし、山菜も若芽もいっぱいあるから、ね。どんなのでも良いから、何が入っているのが食べたいとか、言ってね」
 猫は目線を甘に向けているが、話を聞いているのか疑わしい。山吹の花のような色の目つきは変わらない。猫は甘の話を聞かなかった事にしたがっている様だ。
「……じゃあ、特に希望がないなら――」
「要らん。余計な事はせんでくれ」
 甘の桃色の下唇がむっとすぼまって、さくらんぼの実のように丸くなった。彼女の機嫌の善し悪しは目つきや仕草や物言いよりも、唇の形が一番解りやすい。今の彼女は相当に不機嫌なようだ。
 甘が、良いかしら、と言いながら劉備を押しのけて前に出て猫の目線にしゃがみ込んで、顔を近づけた。水仕事でふやけ、あかぎれの痕が残る白い手で、猫の頬から額にかけてを撫で上げる。
「今日のお粥はウドの芽の入った麦飯に卵を混ぜてあげるからね、ちょっと塩味だよ」
 猫の顔に戸惑いがすぐ表れた。この姉ちゃんをどうにかしてくれと言いたそうに劉備に目線を送るのを、甘が遮った。お話をしている時はよそ見をしちゃいけません。そう言った。
「量は少な目かも知れないけれど、ちゃんと食べなきゃ駄目よ? 食べ残しは禁止。食べた後はちゃんと寝るんだよ? わかったね? お行儀よく食べたかどうか、あなたにご飯を持ってきてくれる人にちゃんと聞いちゃうんだから。……じゃあ、きついところ、お邪魔だったね。劉ちゃん、そろそろ行こうか」
 そう言って劉備の手を取り、足早に猫の部屋から立ち去った。走るように歩く甘に引きずられるように、劉備は歩いた。
「……奥方に世話をさせるのは良いが、今のあいつは多分ただの人間の言う事なんて聞かんぞ。飯を持って行くのは趙雲が良いかな、あいつなら行儀も面倒見も良い。何より、あれが暴れても端女達よりは対処はちゃんとしてくれるだろう」
 劉備は何も言わずに歩き続ける甘の背中に喋り掛けた。劉備の提案には答えずに、甘は歩き続けた。
「劉ちゃん、あの子は可哀想だね……」
 いきなり歩みを止めた甘がそう切り出した。劉備の指先を握り、前を向いたまま。
「湯浴みや着替えの時に見たんだけど、あの子の、怪我のない所の肌はとても滑らかで綺麗で、お腹なんて真っ白なのに、斬ったり殴られたりした痕ばかりなんだよ。勿体ないよ。それに、怪我のし過ぎだからかも知れないけれど眼の感じが、誰とも、皆とも全然違うんだよ。あんなのは……、私、初めて見た……」
 喋る傍から、甘の声は猫への憐憫に溺れていった。劉備は涙声になっていく甘の手を握り返して包んで腕の分だけ開いていた距離を縮めた。
「甘、そう言う事は、あいつの前では言わない方が良いかも知れないから、言っちゃ駄目だからな。ここに来るまでのあいつには、あいつのやり方があったんだ」
 徒党を組まず、背中を預ける人間を捜さず、ただ全てを許さずに退けて、長く独りで生きてきたのだと思う。
「分かってる。……きっと、あの子は憐れまれたくない子なんだと思う。違う、憐れむって言うのと見下すって言うのが、ごちゃ混ぜになって、信じられる人も今まで居なかったから、全部が憎くてたまらなんだ」
 生き残ることも出来なかった人間が何人も居るのを、劉備は知っている。男でも女でも。字が解らなかった、得物がなかった、ちょっと逃げる間が悪かった。他にももっと、挙げればきりがない程の些細な理由で死んだ人間が居るのを、甘だって知っているはずだ。だからと言って猫が辿り着いた他人を許さないという答えは、どん詰まりの荒々しい答えだ。一理はあるかも知れないが、及第点はやれない。
「でも甘達の優しさは、今はあいつには充分に、絶対に大事なものだと思うから、ゆっくり休めるように、安心させてやって欲しい」
「うん、そうだね。じゃあしばらく趙ちゃんにあの子のお世話を任せてみようか……」


 劉備から事情を話すと、趙雲は二つ返事で猫の世話を了解してくれた。劉備の見込みは当たっていたようで、様子を見に行くと、猫は大人しく、されるがままになっていた。陰で様子を見守っていた劉備は、燕の親子のようだと思った。けれどもそこに雛鳥の鳴き喚きや、親鳥のせわしなさは無い。淡々とした作業を無表情で繰り返す不気味な食事風景だった。趙雲がすくった小さめの一口を猫が飲み下し、また軽く口を開く。時折趙雲が噛みきれなさそうな大きめの具を匙で切ったり潰したりして、また一口分をすくう、猫が嚥下する。両者共に無言で、時折匙と茶碗が触れあう音がするだけだ。
 赤子にやるみたいにあーんとか言って見せろよ、何か喋れよ、とすら思った。多分猫は甘の脅しと目の前の武人に怯えているのだろう。趙雲は趙雲で、いきなりやって来たどこの誰とも解らない娘の世話を、主の命で任せられているだけで、内心は何で俺が、と思っているかも知れない。いや、趙雲は自然と接しているつもりなのかも知れない。多分彼は真面目に猫に一通りの自己紹介をして、その後「甘夫人に世話役を任せられました」とか「関張の両者には及びませんが、しがない武人の端くれです」とか言ったのかも知れない。至って真面目に、それが相手にとって結構な脅し文句として効いているとは露知らずに。
「これで、最後だ」
 劉備が聞き耳をそばだててから相当経って、やっと趙雲が言葉を発した。かちかちと食器の触れあう音がするのは、机に食器を戻しているからだろうか。
「味は悪くは無かったか?」
「いいえ」
 間髪入れずに猫が答えた。あらゆる意味で自分の手口が通用する人間はここには居ないと悟ったような声音だった。
「……すまん、怯えさせてしまったな」
「いいや」
「もう聞いているだろうが、後は寝るだけだからな。ここから出たらいけないし、ここには誰も来ないように通達してある。朝、また俺が来るからな」
「はい」
「……お休み」
「はい」
「蝋燭は持っていくからな」
「はい」
 終始そんな調子で会話が進んだ。物音がして部屋から明かりが移動してくるのが解った。劉備が最初から最後まで立ち聞きをしているのも趙雲は知っていた様で、暗い廊下に立つ劉備を蝋燭の明かりがぼんやりと照らしたのに、全く動じる気配はなかった。
「玄徳様、優しいって言うのは加減が難しいものですね」
 苦笑混じりの趙雲の言葉は独り言にも思えた。
 答え難かったし、本当に独り言なのかも知れないからだった。最初から自分達は彼女に対して出来る限りの助けをしてやっているが、猫はそれが気に入らないようだった。しかし、意志の強い女とかなりの手練れと思われる若い武人に脅されて、勝手に「逃げられない」とでも悟ったのだろう。
「大丈夫だ、子龍。明日もこんな調子で接してやってくれ」
 質の良くない蝋燭の、風もないのによく揺らぐ光だけが廊下の闇を頼りなく照らした。


 猫を拾って半月が過ぎた。その間に日が差す時間は徐々に長くなり、何度か雨が降った。猫は甘と趙雲にはある程度懐いたようだったが、劉備には常に懐疑的な目を向けていたし、半月掛けて聞き出せた猫の身の上話は「戦があったら死体を漁って武器と衣類を得て、時折強盗まがいの事をして金品を得ていた」というこのご時世にはありふれた程度の物だった。趙雲が持って来る書物を読む以外は何にも接したがっていないようだったが、時折、寝間着に綿入れを羽織って裸足で邸内をうろついていて、甘や趙雲に怒られていた。
「怪我は肩だけなんだから別に歩いても差し支えないだろ」
 と言うのが猫の言い分だったが、春先で寒さがぶり返してもおかしくない時期だから、体に障るような真似は慎むようにと言い含めた。最初の内は大人しく部屋に帰っていたが、日が経つにつれてなかなか言うことを聞かなくなっていった。体力が回復している証だろうと思われるが、甘や趙雲を恐れなくなった事の裏返しとも考えられた。劉備は、それを悪いとは思わなかった。今までの恐れ方の方がおかしかったのだ。
 その頃になってようやく、荒事は無理だが日常生活は問題ないでしょうと、猫の傷を診た医師が言った。医師のお墨付きを貰えた日から猫の動き回る範囲はいきなり伸び、練兵場代わりの広場を覗き、自分から書物を借りたいと相談しに来たりもした。時折街に出かけている様子も見られた。医師が無茶はするなと忠告した日からしばらくして怪我の事を訊くと、ちょっとした時に痛むだけだと答えが返ってきた。
「早くここから出ていきたい」
 お前は何がしたいんだ、と問うと素っ気も恩義もなさ過ぎる言葉が返ってきた。
「でも、路銀も武器も衣も無い。どこにも行けない」
 そして、それを調達する手段もない。そう呟いた時の顔には「どうしたら良いのか解らない」と書いてあった。
 猫とて、本物の猫の様に日々ごろごろしている訳ではなかった。用心棒の仕事や何かの手伝いを街中で幾つか捜したが、採用して貰っても何日もしない内に、猫が女である事をあげつらって馬鹿にする連中の態度に激怒し、大喧嘩をしてその場を去ると言うのを繰り返す内に、新野中に「劉備の屋敷の赤い頭の食客は乱暴者過ぎる」と言う噂はあっという間に拡がってしまい、どこでも仕事が出来なくなった。日払いで貰った給料は全部猫が、むすくれた顔で劉備に渡した。少な過ぎて何も買えないし、世話になっているお礼だと言う理由だった。劉備が見ると、頑張って交渉すれば安物の綿の衣が一つは買えそうな金額だった。けれども、猫はそう言う使い方は思いもつかなかったのだろう。
 そう言う理由で仕方なくここで傷が癒えるのを待っているだけ、あんたを狙ったのが間違いだった、と言うのだ。猫が劉備を襲った日に来ていた衣は、洗っても汚れが落ちないし、修繕のしようも無いという理由で雑巾にされてしまった。今彼女が着ているのはサラシ以外は借り物だった。劉備が、食客扱いでこのまま逗留しても良いんだぞと提案すると、勝手にしろと応えられた。変な答えだと言うと、勝手にしたのはあんた達だから、ここではあんた達に振り回されるしかないと言った。雑木林から連れて来られて怪我の手当をして貰った一連の流れが「勝手」だと言いたい様だ。舐めた口をきくなと思いながらも、猫の天命をひん曲げた自分が言っても説得力なんて無い気がして、反論はしなかった。
 猫のやっている事はまさしく、猫そのものだった。書簡を借りて読んだり、ふらりとどこかに行って飯時には戻って来て、隅でさっさと食べた後は、昼食後ならまたどこかへ行き、夕食後なら劉備達の様子を独り眺めたり独りで型の稽古をして、疲れたら寝ているようだった。夜の街を出歩く時も一時期あったが、ある時からふっつりと止めた。
 夜歩きを止めた時期の猫の表情は複雑そうだった。夜鷹をするような性格ではないし、もしかしたら逆に男と間違えられて客引きに捕まり、そこから「女ならここで働け」と強引に連れて行かれそうになる、と言うような事が度々あったのだろうと、劉備は勝手に想像している。
 誰も猫の名前を知らなかったが、劉備は訊くまいと思った。地毛の赤さや額の広さから「赤いの」「でこ」、あるいは単に「あいつ」「あの子」「おい」等で事足りたし、猫にも名乗ろうとする気配が無いからだ。それに劉備は、食客程度では名前なんて意味のない物だと思っていた。関羽や張飛を見ても解るように、名乗らない内は腕前と身体の特徴がそのまま名前になって、本当の名前は後から付いてくる。しかし張飛は、最低限の礼儀として名乗るべきだ、あまりにも恩知らずで我が侭だと主張し、怒っていた。いつでもどこでも、酒が入っていてもいなくても、名乗るべきだ、世話になった礼位するべきだと喚いた。
「翼徳、お前こそあいつに失礼な事やっちまったじゃないか」
 あまりにも張飛がうるさいのでそう言ってやると、意外な答が返ってきた。
「大兄者、あいつ毎日俺に喧嘩ふっかけて来るんだよ! 調練終わって休みたいなって思った頃合い見計らって、毎日毎日槍持ってる俺に木剣で殴り掛かってくるんだよ!」
「で、翼徳はどう対応してやってるんだ?」
「柄で適当に殴って気絶させて、放ったらかしてやってるよ! ……最近動きが良くなってきたのがまた腹立つんだよな、くっそ!」
 意外だった。猫の股ぐらを触りまくった件は、仕方なかったんだよと怒鳴り返して来るものだと思っていた。新たに聞いた、毎日襲われると言う事にしても短絡的な彼が殺さずにいるのが興味深かった。怒りながらも心のどこかで面白がっているのだろう。
「最近あいつが調子悪いとか痣が増えたとか言うのは、それが原因か」
「今日なんか、調練してる真っ最中に兵卒共を殴り倒して向かってきて、大兄者の真似か知らんけど両手剣使って俺の最初の一発弾いて、槍持ってる手首に斬りつけて来やがったしよぉ!」
「斬られたのか?」
「まさか。脇腹に拳骨叩き込んだらぶっ飛んでった」
 癖がどこか子龍に似て来たんだよなとぼやく張飛の横で、趙雲に稽古をつけて貰っている猫の様子を頭に描いた。猫は絶対に、他人に教えを請おうとする様な性格ではない。憶測に過ぎないが、一時期だけとは言え給仕役を任された件の延長で、暇な時に趙雲が手ほどきをしてやっているのだろう。
 優しいという事は難しい、という趙雲の独り言が浮かんで消えた。けれども、怒りながらも張飛が毎日猫を殺しもせずに構ってやるのも一種の優しさなのかも知れない。猫が娘であると言う事は既に邸内に知れ渡っていて、「なぜ猫が女なのか知っているのか」と言う理由を聞いて辿ってみると、猫を連れ込んだその日に張飛と関羽が言った「劉備が猫の声音で見破った」という情報が一番古い事に気付いた。張飛か関羽なりの気遣いだろう。これも多分優しさだ。劉備自身も甘に「お前達の優しさが必要だ」と頼んだ。優しくしてやるのはそう難しい事じゃない。自分でも気づかない内にやれている事の筈だ。
 では自分はどうだろう。拾ってきた猫の世話を他人に任せっきりで、特に意識して接しても話してもいない。ふと、これは猫と自分の一対一の問題ではないと思った。もしかしたら猫は、屋敷を仕切る一主としてだけではなく、新野の街全体を取り仕切る統治者としての「劉備」を量っているのかもしれない。だとしたら相当面白い奴だ。
 大兄者聞いてくれ、と尚も愚痴り続ける張飛を放っておいて、劉備は午後は徐福が来る予定だ、と適当な理由をつけて席を外した。徐福は劉備邸に出入りしている侠めいた所があり、並の人間に紛れて暮らしたいのか、劉備達の様に仕官先を求めてあちこちを渡り歩いているのか決めかねている気配のある男だ。最近は猫を構って儒学や兵法だけでなく様々な知識をひけらかして先生ぶって遊んでいる時もある。
 張飛の愚痴よりも、こちらの方を構ってやらなければという気持ちで、劉備の足は自然と猫の部屋に向かった。
 かび臭い部屋には猫だけが居た。甘も、武術の趙雲先生も座学の徐福先生も居なかった。寝台に腰掛け、昼過ぎの陽射しを頼りに竹簡を熱心に読んでいる。猫が座っている傍らには幾つか巻かれたままの竹簡が転がっている。猫は、時折両手で何かの位置関係を示したり、握ったり開いたり、時に空中に何かを描いたりと、竹簡の内容を自分なりに理解しようとしているようだった。その動作の合間に一瞬呻いて脇腹や腕を押さえる事もあった。張飛に打ちのめされた傷が痛むのだろう。
 墨や筆は見当たらなかった。借りた竹簡を汚さずに返すようにしているようで、律儀だと感心した。
「すまん。ちょっと、邪魔して良いか?」
 猫が伸びと欠伸をするのを見計らって声を掛けると、ぎょっとするようにこちらを見た。
「墨も筆も、言えば貸して……、いや、貰って来てやるのに」
 猫が頷いてから部屋に足を踏み入れ、そう言った。猫が椅子を指した。猫は「貸す」と「貰う」の言葉の違いを比べているようで、しばらく沈黙があった。
「どっちも要らん」
 本調子に戻った口調で猫が答えた。もしも張飛がこの場に居たら、猫の返答に対して迷わず殴り掛かってきただろう。劉備は椅子に腰掛けながらそう思った。
「あんたは、本当に劉備様だったんだな」
 猫が竹簡から顔を上げずに言った。
「なんで、今になってやっとそんな事を信じるんだ?」
「信じたんじゃない! 俺の結論だ!」
 猫が立ち上がって、劉備を睨み付けながら怒鳴った。劉備が椅子に座っているから自然と見下ろされる形になった。立ったまま、良いか、結論だ、と念を押して再び猫は寝台に腰掛けた。
「噂を聞きつけてここに来た流民が家を建てるから、街が、外の方に行けば行く程新しい家とか、ぎこちない感じの奴とか、そんなのが増えている。街全体がどんどん大きくなっている。色んな奴捕まえて何でここに来たんだって訊いたら、大体の奴が『劉備様が居ると聞いたから』って答えた。そして、講談師の物言いが他で聞いたのと違う」
 どんな風に、と訊くと猫がやっと劉備の方を向いた。山吹色の瞳。雑木林で襲われた時の赤ではない。何より、凶暴さも警戒も消えていた。
「『劉皇叔御自身が新野に居るから大丈夫だ』。そう言って話を結ぶんだ」
 そして猫の目つきが変わった。人間を見定めようとする目だが、どちらかと言うと猜疑に近い色合いだ。
「でも、街では劉備様らしい人物を見たとはほとんど聞かん。『関羽と張飛が居るから劉備様も居るに決まっている』て、皆がそう言ってる。実物を見てないのにそんな事を信じるのかって言ったら、『もう半年前からそんな話で一杯だ』とか『実際に関羽と張飛を見た事がある』って言われた。あと、趙雲が女どもにやたら人気あった。あ、で、劉備様だよ。でもあんた等は肝心の劉備様を見ていないくせに信じている、講談を頭から信じる餓鬼以下だって言ったら、そいつら酔っぱらってたから大変だった」
 酒家でそんな話をするんじゃなかった、昼間から酒喰らってんじゃねぇよ、と竹簡を片付けながら猫が言った。よく見ると、猫の額に擦り傷と痣が出来ていた。
 劉備もよく街に出て、自分の噂を聞いて回った事がある。あいつは自分の家に引きこもって刺客に討たれないようにしているとか、実は新野に居るのは身代わりで、本人はあちこち放浪して自分の手駒を揃えて回っているとかそんな話を直接聞いた。噂や講談を信じる人間って結構面白い物だなと、腹の中では笑ったものだった。
「雲長と翼徳はでかいし目立つけど、俺は福耳のっぽなだけだからなぁ。そうか、酒家で喧嘩までしたか。勝った?」
「で、何用ですか、劉皇叔殿?」
 竹簡を巻き終えて机に並べた猫が、向き直って言った。劉備の方も、特に何か用事があって来たというわけではなかった。強いて言えば話をしたくなったとか、猫が何をしているのか、まず部屋を覗いてみたらたまたま居たから声を掛けたようなものだった。
 たまたま覗いただけだが、収穫は大きかった。猫が劉備の何かを量っているかもしれないという推測も当たったし、結構面白い雑談が出来た。出来ればもうちょっと話がしたいところだ。
「うーん、そうだ、明日お前、暇か?」
「皇叔殿や奥方様や先生方に比べれば、毎日暇だ」
「じゃあ、ちょっと飯でも食いに行こうや」
 猫は答えない。
「俺とあんたとで」
 そう付け加えると、逢い引きはお断りだと言ってそっぽを向かれてしまった。今みたいにただ雑談がしたいだけだと言ったら、勝手にしろと言った。劉備が以前食客として逗留する事を提案した時と同じ答えだった。猫が言うので、勝手にしてやる事にした。



後編に続く

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