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その赤の名は 劉備編「猫」後

注意書き

SR魏延が結構粗暴な性格の女の子な小説の連作集です。こちらは後編です。
今回は「もしも新野で二人が出会っていたら」というifの基、書いてみました。
初出は2011/10/30発行の冊子版「その赤の名は」です。



以上の事を踏まえて、ご了承いただける方のみ「つづきはこちら」からどうぞ。
フォントサイズが大きくなります。

 昼飯時になる前に、劉備は猫だけを伴って邸宅を出た。街中は人が行き交い、客寄せの口上や母親が子供を叱る声や、なにやら喧嘩の最中らしい怒号で、雑然とした雰囲気に満ちていた。規模が都に劣るのは当たり前だとしても、人々の活気が、ここが自分が治安を守っている土地なのだと劉備にいつも認識させた。
 新野はもう少し頑張って南に行き、川を渡れば襄陽に行ける程度の位置にある、主に対河北の拠点に過ぎないのだが、「劉備」の名前に吸い寄せられた人間で新野の街は徐々に規模が大きくなっていった。ちゃんと数えたわけではないが、集まってくる人間の大半が家財も何も持たずに逃げてきた流民だと言われているから、それらに家を与えたり炊き出しを行う等の統治を今の所しているが、新たに畑を作れる土地を見付けて開墾させたりしなければならないだろうな、というのが最近の劉備の悩みだった。
 猫は何度か街を出歩いた事があるからか、喧噪や客引きにも動じなかった。逆に、猫の方が街中の人間の目を引きつけた。目立たないようにと被らせた頭巾の隙間から覗く赤い髪が原因だったが、やはりというか、当人は動じていない様子だった。
 山菜を豚肉と混ぜて、小麦粉をこねた生地に包んで蒸した、良く分からないが美味い物があると評判の店に行き、二人で卓を挟んで向かい合って座った。厨房の辺りに向かって一番美味しい奴とお茶二つずつ、と注文すると、返事がちゃんと返ってきた。蒸し物は何という名の料理なのか判らないが、どうも、最近どこかの誰かが作り方を考えたとか言う物らしい。
「今まで食客みたいな真似事はやったのか?」
 給仕の持ってきた茶を一杯あおり、それから劉備は話し掛けた。同じく、茶を一口すすってから猫は答えた。
「いや、こんなに長く一つ所に居られるのは初めてだ。……甘夫人も、勉学も武術も世話を焼いてくれる奴が居るから、それが、何か、やっぱり離れ難い理由かな。劉皇叔御自身も食客で居るのを許して下さってる訳だし」
 怪我が治ったら出て行く心づもりだった筈の猫が、そう言った。それにしても、「劉皇叔」という呼ばれ方は中々慣れない。
「じゃあ、独りでぶらぶらしている時期の方が長かったのか」
「そうなるな」
「きつかっただろ?」
「何が」
「男じゃないって事が」
 沈黙があった。猫の、少しでも威勢を良くして見せようとする気配がどこかに逃げた。
「ごめん、訊いた俺が悪かった」
「いや、誰だって苦しいんだ。俺は少しばかり苦しくないように生きられる力を持ってただけだ。で、幸か不幸かあんたに巡り会えた。そんだけだ」
 猫は首を振ってそう言ったが、どう見ても強がっていた。男だったらどんなに楽だったか、余計に苦しまずに済んだかと、心の底では思っているに違いない。
 蒸し物が来るのにそう時間は掛からなかった。蒸し物に添えられて出された茶は薬湯のような物だったらしく、口の中に残る山菜の苦みと甘み、肉に僅かに付いた塩気はそのままに、冷水のような刺激が湯の中にあった。心なしか、湯気に混じる匂いも鼻の奥まで冷えて届く気がした。
 一方の猫は茶も蒸し物も楽しんでいる様子はなかった。取り敢えず劉備がおごってくれるんだから両方とも口に突っ込んでみたという感じで、味気も何もなさそうな顔をしていた。
「……いつまでも居ても良いんだぞ」
「それは、御免被りたい」
「恩義とか忠義とかが釣り合わないとか、貸しただの借りただのとかの、そんな計算はしなくて良いよ」
「劉皇叔御自身がそう言っていても、俺は嫌だ。俺はあんたに釣り合えない」
「今あんたは自分が何も出来ない人間だと思っているみたいだがな、俺は将になれる人間が欲しいし、あんたは将になる可能性がある人間だ。どうだ」
「可能性って言うけれど、兵卒から同じ様に育ててどれ位の人間が将になれるのか数知ってて言うのかよ。割に合わない計算だ。普通の人間の内、何人が関、張、趙先生みたいになれるっていうんだ」
「そう卑下するなよ」
「劉皇叔が俺をちゃんと量れていないって事をご指摘申し上げたいだけだ」
 随分いじけた返事をすると思いながら、劉備は茶と蒸し物を平らげた。猫はまだ、何だか生きた心地がしないという表情で茶をすすっている。
「最初に出会った時、あんたは翼徳と雲長に傷つけられようが脅されようが、絶対に命乞いをしなかった。今も、自分の為だけなのかも知れないけれど、子龍に稽古をつけて貰ったり、毎日懲りずに翼徳に斬りかかったり徐先生に色々教わっている。そういうのを見て、俺は残って欲しいと思っているんだ。奇貨置くべし、という奴だ」
 根性と見所があると言いたいのだが、猫は聞いてくれているのか判らない。最後のひとかけらを口に突っ込んで飲み下し、一息ついてから言い始めた。
「……怪我も治ったし、出て行くよ。これ以上劉皇叔の御恩恵に与るわけにはいかない」
「どこ行くんだ」
「襄陽の向こう。多分」
「歩いてか」
「馬は諦めた」
「驢馬ぐらい持って行っても良いんだぞ」
「格好悪いからやだ」
「乗れるし、金になるし、食えるぞ。馬より丈夫だ。馬は荒かったり臆病だったりして性格は色々で、まず相性の合う奴を捜す所から始めないといけないけれど、驢馬は結構言う事聞いてくれる。不味い餌食わせても平気で食うし」
「やだ」
 やだ、という言い方が年相応の様子で可愛らしくて、劉備は思わず笑った。
「何で笑うんだよ、気持ち悪い」
「いやな、……でも、出て行くのももうちょっと考えてくれて良いんだぞ」
 引き留めようとする劉備の話にうんざりしたのか、溜息を吐きながら猫が立ち上がった。そうだな、帰ろうかとだけ答えて勘定を済ませて劉備もそれに従った。
 猫の向かう方向からして邸宅に戻る足取りではなかったが、無理強いはするまいと思った。いざとなったら当て身を喰らわせて連れて帰れば良いのだから、猫の気が紛れるまで付き合おうと思った。行商人が珍しい宝飾品や織物を露店で開いている通りに差し掛かると、何かを捜すわけでもなさそうなのに、猫はそこに入って行った。しばらく歩くと、猫が振り返って劉備に言った。
「一応女の俺と出歩いてお話ししてるのに、奥方様に詫びに何か買わなくて良いのかよ、皇叔様」
「んー、俺の嫁達はあんたの事を女の子扱いしてるけど、どっちかって言うと武人扱いで男に近いって思ってるみたいだし、その辺は気にしないと思う。大丈夫」
 猫なりの、何かの配慮のつもりだったらしいが、そんなのが不要と判って興が冷めたのかまた、正面に向き直って歩き出した。猫、猫、と密かに呼んでいるが、未だに懐かない猫の気まぐれな動きに付き合ってぶらぶらするのも良いかも知れない。思惑はよく分からないが、後ろから付いて歩いて猫が興味を持つ物を一緒に見て回るだけでも面白いし、もしかしたら逗留し続けてくれる切っ掛けの糸口も見つかるかも知れない。
 雑踏の埃と様々な声の向こうから、野太い幾つかの笑い声がした。流民や商人や人夫といったカタギの人間ではなさそうだと、何となく知れた。
「――人伝いに聞いたから尾鰭背鰭も凄まじいもんだと思うけどよぉ、男を襲う夜鷹ってのが居るんだな」
 雑踏の向こう側から、やくざ崩れと思われるような格好をした五人程の男達が破鐘のような声を周囲にまき散らしながら人々を押しのけて歩いて来る。どれもが、派手な袍を着て、ある者は罰として入れられた入れ墨をこれ見よがしに晒しながら、ある者は大振りの槍を肩に担ぎながら威張り散らして歩いていたが、身振りの雰囲気からして、何だか虚勢を張っているようにも見えた。関羽や張飛にはまず敵うまい。
 全員が趙雲独りでどうにかなる連中かな、と思いながら歩いていた劉備は思わず猫にぶつかった。猫の足が止まっていた。劉備がどうしたと言うより一拍早く猫が逃げるように、取り合いたくないとでも言うように路地に入って、男達をやり過ごそうとするので劉備もそれに従った。
――なんであんたまで来るんだよ。
 猫がそう言って怒り出すかと思ったのに、そんな反応はなかった。ただじっと、男達に全ての注意を傾けている。ちらりと猫の顔を伺うと、瞳に赤と山吹が交互に渦巻き、せわしなく色がのたうっていた。猫の目玉のからくりが何となく判った。こいつは頭に血が上る様な事があると、それが目玉に出るらしい。普通の人間が照れて頬を染めたり激怒する時に顔全体が赤くなるのに似た仕組みの様だ。
「俺それ講談で聞いた。『人喰い夜鷹』ってんだろ?」
「題なんか知るかよ。男を誘っていざ事に及ぼうとしたら逆に襲って金品着物を奪って行くんだってよ」
「ぬるいなその夜鷹。俺が聞いたのだとナニを切り刻んで腑を喰うって話だ。まあ、俺が聞いた時は餓鬼共が多かったから、餓鬼を脅して躾けるつもりの話だったんだろうよ」
「男にしか効かねえ脅しじゃねえか」
「いや、その後のは女は人間に化けた狼に殺されるって話でなぁ」
「用意が良いなぁその講談野郎!」
 もっとも、俺達がそんな女一匹に八つ裂きにされるわけがないけどなと話を続け、笑いながら、やくざ崩れの男達は雑踏に消えていった。
 劉備はもしや、猫が男達に喧嘩を売るのではないかと思っていたが、そうはならなかった。猫は険しい顔のまま男達を見送って、注意深く路地から雑踏に戻った。
 周りを行き交う人間の言葉にも、夜鷹という言葉が混じっては消えた。初めて聞いた、以前から知っている、もっと恐ろしい内容だって聞いている、新野は大丈夫に決まっている、飲んだくれ男なんて皆そうなってしまえば良い……、拾い上げれば切りがない程多くの言葉が水泡の様に浮いては消えた。
「……人喰い夜鷹って初めて聞くな。それが、あんたにはどうしたってんだ」
 劉備の問いの何が悪かったのか、猫が突如として走り出した。人の波を文字通り割り砕き、身をねじって台車を避け、客寄せの口上を叫ぶ男を突き飛ばして、街の外へ向かった。その先には流民達があり合わせの物を集めて小屋を建てた区画になっている。
 流民の築いた粗末な家の隙間を全力で走り、痩せ細り、着る物もままならない骸骨寸前の人間を踏みつけ、蹴り飛ばして進む猫を、劉備は被害者達に一々頭を下げ、ごめんごめんと言いながら追いかけた。猫との差は広がるばかりだが、それでも追いかけた。
 猫は俊敏で、しなやかだった。伊達に毎日稽古を積んでいないと思う反面、劉備は自分が最近全くそういう事をしていないのに気付いて、俺は今まで新野の地で一体何をしていたんだろうか、何もしていないじゃないかと猛省した。帰ったら、もうちょっと武術の鍛錬でもしよう。そしてこの流民達の事ももっと真剣に考えよう。考える頭が少し足りないな、誰か人を捜そうか――
 猫は劉備との距離を開きながら走り続け、街も流民の建てた小屋の外れも通り過ぎ、原野に辿り着いて、膝を折って倒れた。倒れ、ゆっくりと上体を起こす猫に向かって、息を切らせながら劉備は走り続けた。
「どうしたんだ、いきなり走り出して、そうなったかと思えば倒れちゃって……」
 やっと追い付いた劉備が猫の脇に座り込み、息が上がった所為で切れ切れになりながらそう訊いても、答えはなかった。
「あれか、人喰い夜鷹の事か? 身内でも殺されたのか?」
 猫は息を弾ませながら首を横に振った。
 猫と劉備が駆け込んだ原野には何も、道らしい物すらなく、振り返れば流民の小屋が山崩れでも起こした様に無計画に拡がってきた様子がありありと伺えた。
 先に息が整ったのは、猫の方だった。まだ荒い息を吐く劉備を尻目に、どこかに行ってしまうのではないかと思ったが、仰向けに寝転がって空を眺めだした。衣の下の肋と腹がゆるやかに上下している。その格好を見て、初めて猫と出会った時の自分の様だと劉備は思った。
 けれども今日は暖かな陽射しはない。灰色の雲が太陽を覆い隠そうとする様に空を渡っていた。雲の手勢は多かった。
 西を見ると、遠くに雨雲らしい、地面すれすれの高さを這い回る黒い雲が見えた。雲の中で光が瞬いている。続いて、大きな岩を幾つも谷底に突き落とした様な音がした。
「雨が降るぞ。帰ろう」
 猫は答えない。本当はいやだ、とでも言いたいのだろうが、何かを考え込んでいる猫にはそうする余裕も無い様であった。
「じゃあ、今あんたが泊まっている所に戻ろうか」
 言い方を変えた。
「……ちゃんと、帰っても良いのか考えたい」
「考えるまでもないだろう。夕方になったら雨が降るぞ。このままどこかに行くにしても、雨は嫌だろう。酷い雨になるぞ。だから、帰ろう。それに今日は良い運動にも勉強にもなったよ」
 猫は何も言わなかった。何も言わずに起き上がり、空と劉備を交互に見て、原野に向かって踏み出した。まだ冬の名残があるかも知れない、冷たい風と雨が待つ暗い西の方へ、疲れた足取りで歩き出した。
 出て行く、と言う猫の言葉は数刻もしないうちに現実の物になってしまった。猫の背中を見る劉備には、猫は旅支度も武器もなく雨風の中に突っ込んで凍えて死ぬのを選んだ様に感じた。
「おーい! そこの!」
 劉備は地平ぎりぎりに立つ人間に呼びかける様に、腹の底から声を出して立ち上がった。何事かと思ったのか猫が振り返って立ち止まった。
「そんな格好でどこ向かおうってんだ、あんた」
 初めて出会った人間に掛ける様な言葉遣いに、猫は面食らった様な顔をした。猫に近付きながら、劉備は続けた。
「親父さんかお袋とでも喧嘩したのか? 行く当てが無いんなら、ほとぼりが冷めるまで俺の主の所に来いよ」
 そう言って、猫の肩を捕まえた。
「大丈夫。うちの主人は心の広いお方だからさ! 一人や二人旅人が増えたって気にはしないよ」
 劉備がおどけて、初対面の振りをして何が何でも連れて帰ろうとしているのだと、やっと判った猫の山吹の目が見開かれた。続いて小さく溜息を吐いて、それと同じ位小さな声で呟いた。
「あんたって、馬鹿だな……」


 夕方になると劉備が思った通り雨が降り始めた。雨は新野全体に籠の様に覆い被さっていた。雨粒はそう大きくないが、雪になり損なったかの様に冷たかった。
「この雨では帰るのは難しいですな……」
 徐福に泊まっていけば良いと言うと、彼は助かりますなと感謝した。今日は夕方頃から本当に徐福が来て相談をする約束だった。徐福には残念な事に、雨に閉じ込められてしまった。
 もう一人、閉じ込められた人間が居るが、そいつは甘と趙雲に世話を任せた。どうにも考え事があって鬱いでいるらしいから、ちょっと面倒を見てやってくれと、そう頼んだ。
 雨はいつもより早く夜の闇を連れて来て、それに合わせて蝋燭に灯が点った。
 どうせ泊まるのだからと、徐福は劉備や集まってきた関羽や糜竺達と話し込んだ。場所はいつもの、皆で酒を飲んで騒ぐ大部屋だった。そこに机を置き、粗茶を飲んで雑談をするのが常だった。今日劉備自身が見た新野の流民街の改善についてと、ちゃんと事を進めたいから経験はなくても良いから学のある奴が欲しいという話をして、徐福の友人を紹介して貰う所まで話が進んで、そこで一段落ついた。それなら一杯飲むべきだと言って聞かない張飛に、真面目な話をしているのに酒なんか飲むなと、満場一致で批難の目を向けた。
 酒がないと動けない、雨の中で手下達と乱取りをやったから寒くて堪らない――張飛が言い訳をする度に、関羽と徐福に一々看破されてしまった。劉備はそれを笑って眺めながら、昼間に聞いた「人喰い夜鷹」と猫の反応がどうにも忘れられずにいた。
「……ちょっと、大分話題が変わるんだが、良いかな」
「はい、何なりと」
 応えたのは徐福だけだったが、劉備は昼間の事を、渦巻いて整理のつかない腹の底から掬い上げて言葉にした。
「『人喰い夜鷹』とかいう話を、皆知ってるか? 夜鷹のなりをして男を襲って金品と玉竿奪っていく奴らしい」
 話だけなら、と関羽と徐福達は答えたが、張飛が黙って何かを考え出した。考え事をしている時の彼は雑音、とりわけ人の話し声を極端に嫌がるので、皆で声を潜めて別個に話を続けた。ただの噂話だ、講談師の新作だ、実際にあった事件だからこんな事が起こるんじゃないか、でもなぜその話を今ここで振るのですか……。
「大兄者」
 話の隙間を見計らっていたかのように張飛が声を発した。
「酔ってたからいつだったか思い出せねぇんだけどよ、俺、そいつに襲われた」
「何で黙ってるんだ、翼徳!」
 関羽と劉備は異口同音にそう言った。糜竺は怒鳴り声に驚いて椅子から落ち、徐福は黙って聞いている。二人の義兄に怒鳴られた張飛は子供のように肩をすくめて萎縮しきっていた。
 物語が現実の物になっていたという事に、劉備は煙に首を絞められているような得体の知れ無さを感じた。呂布だの曹操だの、天下に散在する生きた英雄達に立ち向かえても、妖怪や死霊から自分達を守る術は無い。槍も弓も徒手空拳も効かない相手をどうする事も出来ないという無力さを感じた。
 講談師達によって噺になった自分達が、張飛を襲った夜鷹とやらを責めるのも筋が通っていないというか納得し難いというか、変な話のような気がするが、それでも、目の前の義弟を殺そうとした何かが居るというのが、許し難かった。
「……まあ、大兄者、想像も付くだろうけれど、それがあの赤いのだったんだよ。夜目って言うか、灯籠のぼやっとした明かりじゃはっきりと判んねぇけどよ、あの髪の毛の赤さはあいつだった。身のこなしも、毎日あれだけやってたら癖も大体覚えるよな。あいつなりに不意打ちしようと思ったんだって、あの時は思ったけど、今考えるとあれが『人喰い夜鷹』だったのかも知れん」
 恐る恐る、怒鳴られて強張った体を解しながら張飛がぽつぽつと話し始めた。その様子は劉備には、今まで黙っていて申し訳ないという気持ちと、これを話すと猫がここに居辛くなって、結果的に自分が追い出す形になると腹心地が悪い、と言う気持ちがあるように見て取れた。
「翼徳、お前酔ってはおらんだろうな」
「そん時はべろべろだったけど今は酔ってなんかいねぇ!」
「ああ、解ったから、その時の状況を話してくれないか?」
「うーん、……頭から布を被って顔を隠して、で、得物は包丁だった。女の着物着てたから最初は解らんかったけど、初手をかわして、次の突きも包丁奪い取ったら頭の布が剥がれてな、顔は見えなかったけど、髪が赤かったから、ああ、あいつだな、面白い事をやるなって、その時はそう思った。んで、赤いのは逃げた。俺、その時に今度こそ討ち取ってみろよーとか暢気な事言ってしまったかな。包丁はうちのかも知れないから持って帰った」
「その後は遭った?」
「いや、ちっとも」
 張飛が襲われていた。その辺の酔っ払いと同じだと見なされて。しかも手を出したのはあの猫だと来ている。
 劉備の脳裏に、妖怪めと憎んでいた先程の煙がはっきりと、取り澄ました顔をした猫になった。一度も笑った顔を見た事がない猫の唇に血の色をした紅が引かれ、微笑の形になっていた。けれども目蓋と頬は哄笑している。脳裏の闇の中で、赤い髪を振り乱してけたけたと嘲笑いながら躍り出た猫が、どこからともなく出てきた包丁を両手に持ち、狙った様に降ってきた布きれを頭から被り、踵を返して闇の中に跳躍していく。動きは趙雲に少し似ていて、そして男装の上から女物を粗く羽織っているだけなのに艶めかしい。
 猫がここに来た当初の行動の事はよく思い出せないが、一時期は夜中も外に出ていたような気がする。しかし今は夜間外出はせずに、日が暮れたら夜目が利く間だけ棒きれを振り回して鍛錬の真似をして、疲れたら寝る、と言う感じだ。
 もう本人に訊いた方が早いかも知れない。問い詰めるべきだ。年端もいかない荒々しいだけの小娘だと甘やかしていたのが悪かった。そう思って劉備が席を立つと、袖口を捕まれて引き留められた。
「大兄者、あいつは面白くない奴だけど、俺も俺で、酔っ払いでいい加減な愚弟だけど、でもこれだけはちゃんと言っておきたい。ここで、新野で『夜鷹』に襲われた様なのは俺だけだ。酒飲んでるだけの俺が言うから嘘くさく聞こえるかもしんねぇけど、臓物をずたずたにされた死体の話は実際には聞いてもないし、見てもいない」
 袖を握ったまま、張飛が言った。関羽と徐福や、その他の面々にも目を向けると、張飛の言っている事は正しいと言う様に頷いていた。
「あいつはここじゃ夜鷹になってなんかいない。これは確かだ。それに、今の大兄者の顔は大徳様の顔じゃねぇよ。あんな、ぶち殺してやるって顔は、大兄者がやって良い顔じゃねぇよ!」
 頼むから、と張飛が大きな体を縮こまらせて頭を下げた。その様は、大きさは違えど、大徳様、皇叔様、劉備様と口々に言う小さい平民達と同じだった。
「……翼徳、お前の言いたい事は大体解った。けれども俺はお前の義兄として、そして、新野の治安を守れと言われた立場からして、そいつを許したくない。どうしても、何があっても、絶対に、だ」
 張飛が掴んだ袖を払って劉備は窓の外を睨んだ。背に口々に劉備を呼ぶ声が追い縋るが、無視した。向かう先は当然決まっている。
 そう思っていたのに、猫の部屋に明かりが無いのを見て、劉備は愕然とした。猫が、甘と趙雲までも殺してしまった。それはお前の妄想だろうという声が頭の片隅でするが、確認するまで安心は出来ない。やはり招き入れておくべきではなかった。
「畜生め!」
 そう叫んで、大部屋を飛び出そうと扉に向かって走ろうとした劉備の目の前で、戸が開いた。甘が猫の手を引いて小さな燭台を持っていた。二人の背後の闇には、部屋の明かりの照り返しを受けた雨粒が時折金色に光って落ちていった。
「劉ちゃん、そんな顔してどうしたの?」
 いつもののんびりした気配のする甘ではなかった。甘は猫の手を引きながら大部屋に進み、最後に入ってきた趙雲が扉を閉じた。雨音が遠くなった。
「おい」
 猫の胸倉を掴もうとして、甘に遮られた。どけ、と脅しても、猫を抱きしめて全身で庇った。
「劉ちゃん。私はこの子の話を全部聞いたの。だから、この子の味方をする」
「全部って何だ? 俺を殺そうとした時からか? 翼徳を殺し損ねた時からか?」
「違う。この子が初めて人を殺した時から今日まで、全部よ。趙ちゃんも一緒に聞いていた」
「俺はお前に用があるんじゃない。おい、夜鷹!」
 猫は反応しなかった。その代わりの様に、甘が怒りを劉備にぶちまけた。
「劉ちゃんだって言ったじゃない。この子にはこの子なりの生き方があったんだって、この子を連れて来たその日に言ったじゃない」
「そいつは翼徳を殺そうとしたんだ」
「だから? 張ちゃんじゃなかったら別に良かったって言うの? 実は気付いていたけれど、もうちょっと人が死んでから対処しようって事にしてたの?」
 反論できなかった。猫が夜鷹となり、何人かが犠牲となってから「何だか怪しい」と気付いていたかも知れない。そして今日たまたま、噂話を聞けたのも運が良かっただけかも知れない。
「それを言うなら、この子も張ちゃんも運が良かっただけよ」
 甘達は何も言えずに固まったままの劉備の脇を通り、輪の中に割り込んで行った。いつの間にか趙雲が椅子を持って来て、それに猫を座らせた。満座の目が、その動きをずっと追っていた。
「何があったか良くは分かんないけれど、こっちでも同じ話をしていたみたいね」
 雨が降っている。冬に置き去りにされた冷たい雨が、春の到来を嫌がる様な雨の音が沈黙を支配した。雨粒が地面や屋根を叩く音と軒から滴が垂れる音がする。
「良いかな、劉ちゃんも皆も聞いて。これは私の話じゃなくて、この子が上手く説明出来ないから、この子の代わりに、私と趙ちゃんで聞いた話を纏めて説明するだけだからね」
 猫を許さない、殺してやると息巻いていた自分は甘の一言でどこかに行ってしまった。それに、甘を通して猫からも言い分だかがあるらしいので、聞いてみる事にした。聞いてから、納得がいかないからと八つ裂きにしても遅くはないだろう。そう思って、先程まで座っていた椅子に戻った。それを待っていたかの様に甘が話し始めた。
「この子は、ここでは張ちゃんしか殺そうとしてないし、張ちゃんだって解ったからすぐに殺すのを止めた。そして次の日にごめんなさい、もうしませんって、頭を下げに行ったの。張ちゃんは遊びの不意打ちだと思っていたみたいだけど、あれは本当に、この子がここから旅立つ為のお金が欲しくて計画した事なんだって」
 それがどうしたと思った。張飛が死にかけたという事実に変わりはない。劉備の中で、殺せ追い出せと言う声の上に「運」という甘の言葉が覆い被さって来る。
「誰にも迷惑を掛けずに出て行くのは難しいし、かと言ってここでずっとお世話になるのは劉ちゃんと張ちゃんを殺そうとした事もあって居づらいし、もっと難しいから、どうしよう、どうしたら自分がここに居ても良いよって言われるような価値があるだろうって悩んでいて、皆も優しくしてくれるからそれに甘えて先延ばしにしていたら、今日、夜鷹って事がばれちゃったの」
 つまり、猫は運が悪かったのだ。
「……だから何だって言うんだ。張飛は単に運が良かっただけだって言いたいのか?」
「そうよ。……違う、張ちゃんだけじゃなくて、新野の皆が運が良かったのよ」
「運なんて言葉に逃げるな! 甘!」
 吹けば飛ぶ様な枯葉に似た言葉には何の力もない。説得力も、重みも、何もない。
 そう言ってやろうと立って甘に迫ろうとした劉備の前を、張飛が遮った。
「大兄者、俺はこいつをとっくの昔に許したんだし、こいつはこいつで、すぐに、丁寧に謝りに来たんだ。俺からも頼むよ。お願いだよ」
 どうにも腑が煮えくり返りそうな怒りが収まらない。両の拳を固く握り、張飛の横をすり抜け、椅子に座ったまま項垂れる猫の胸倉を掴んで引き立てた。後ろから張飛が叫び、横から甘が押し留める様に手を伸ばした。趙雲は何もしない。胸倉を捕まれた猫がこちらを見ている。目玉の色は山吹で、赤は見当たらなかった。何もかもを心に決めて甘に話し、何も言わずに出て行っても良かったものを、律儀に頭を下げようと決めたのかも知れない。双方が動かずにいると、猫が何か言い始めた。
「……俺に大事な人間なんて居ないけれど、ここが皇叔様にとって命同然に失いたくない物だって言う事だけは解った。だから――」
 ごめんなさいとでも言いたかったのだろうと思う。けれども言わせたくなかった。腹の立つ、言ったからこの件はおしまいにしようよという馴れ合いの、意味のない言葉だと思うからだ。斜め上から叩き付ける様に殴られた猫の体が床に転がり、趙雲が抱き起こした。
 ――翼徳が許しても、甘や、子龍が納得しても、俺は許さん! 許したくない!
 本当は、もう二、三発殴りながらそう叫びたかった。張飛に背後から羽交い締めにされて、爪先が宙に浮いたから諦めたという訳ではない。
「これで無しにしてやる……」
 女の子の顔を殴るなんて、と叫ぶ甘に、猫が少し舌っ足らずな声で心配無用と強がっている。張飛も、劉備の体から力が抜けたのを見て羽交い締めを止めた。
「……明日から普通に暮らそう。子龍や翼徳と稽古して、徐福先生に兵法を習って暮らせばいい。また今日みたいに街に出て皆で腹の底でにやにやしながら劉備や夜鷹はここに居るよって講談を冷やかせばいい」
 こんな流れで、果たして納得がいくのか、しこりは残らないのか。大部屋の空気がそう囁いた。
「俺としては、あんたの事を一応は評価しているつもりだ。勉強や武術を会得しようと頑張っているのは知っている。ここに残って欲しい。偶然だけどあんたを追いかけて行く内に見た出来た流民街の実態は、俺に何をすべきかとか教えてくれた気がする」
 大部屋に漂う空気を払いのける為、劉備はそう宣言した。後は猫が「うん解った」とでも答えたらこの話はもう終わりで、人喰い夜鷹は永遠に封印されるのだ。猫を支えていた趙雲の他に、甘と張飛が加わって説得し始めた。
「……あんた、聞いた話じゃ、都に居て位まで貰ってたんだよな。仮に本当にそうだったんなら、ちゃんとどこかの牧や太守に就けて貰ったら、そっちの方が良かったんじゃないか? 自分の土地も持てるし、義兄弟が散る事も妻子がひもじい思いをする事もない。住んでる人間だって、劉皇叔様が治めるって言ったら、大人しく従うだろうよ。ここみたいに、人間だって増える」
 甘達の説得をよそに、猫は立ち上がって劉備に向き合い、鼻血を拭いながら言った。
 猫の言うのは一理あるだろう。そして、それで満足する人間もいるだろう。しかしそれは既に通った道だ。選ばないと決めたやり方だ。
「それじゃ、俺の天下じゃなくなるんだ」
「あんたの言う天下って、何だ」
「もしもあんたの提案通り曹操の手下のまま太守になりたいとか言っても、あいつは絶対に許さないだろうよ。あいつも天下が欲しいんだから。一地方を治めて好き放題に財や兵を蓄えたりなんかしたら殺される。それか世の侠者を統括する為の何かの策に巻き込まれるかして忙しかっただろうよ。まあ、何にせよ、曹操の下にいる限り俺の命は俺のやりたい様にじゃなくて、曹操の気まぐれで左右されるんだ。そんなのは御免だ。……うん、そうだ、天下だ。天下って言うのは、自分以外の人間から指図を受けずに治められるものの範囲の事だと、俺は思うな」
「……その範囲とやらを、あんたはどうしたいんだ」
「甘い物言いだとあんたは言うかも知れないが、せめて領民が苦しまずに、楽しんで生きていける様な物にしたい。それを出来たら、中華全土に広げたい」
 猫の表情には変化はない。俯き、上目遣いに睨んだまま口を閉ざし、さざ波一つ立たない。夢想だ、と言いたいのだろうと思った。
「それを、手伝う気はないか?」
 猫はすぐには答えなかった。答えきれないようだった。
 早く言えよ、と急かそうとする張飛を止めて、劉備は待った。その間も、止む気配が一向に見えない雨が落ち続けていた。
「……俺は、本当の事を言うと、あんたの天下を見たい。けど、最初に会った日にあんたに言われた様な将になるのは難しいだろうし、時間がかかるし、何よりすぐにあんたを手伝えない。俺は優しくも、飯炊きが出来るわけでもないし、銭勘定も兵法も、それどころか腕っ節すらないんだ。頭も腕も無い、ただ飯喰らいの妖怪だ」
 この猫は理想が高すぎるんだと、劉備は思い知った。今すぐに劉備の力になって、古参の武将達にも引けを取らない活躍をしたいと心の奥底から願ってはいるが、猫のままでは嫌だ、だからと言って妖怪と評価されるのも勘弁して欲しい、せめて虎の子にでもなってから、と思っているのだ。
「だから、出て行くのか」
 猫が頷く。
「馬はともかく剣だとか、荷物や路銀はどうするんだ?」
「いい、要らない。どうにかする」
 猫の言う「どうにか」が強盗なのは間違いないだろう。それでは昔の、警戒心がやたらと強くて誰彼構わず威嚇して噛みついて回っていた猫に戻ってしまう。あるいは人を喰って生き延びていた夜鷹になってしまうのは明らかだ。
 それじゃ駄目だよ、とたしなめる甘に猫は首を振って答えた。
「決めた事だし、許して貰えたけれどこんなぎくしゃくした空気も、皆嫌だろうし、だから出て行くよ」
「……そうか、どうしても、出て行くのか」
「決めた事だから」
 劉備は苦笑いをした。この猫の一本気過ぎて頑固ですらある所は、治ることなく生涯ついて回り、猫を知らない内に苦しめるのだろう。そう言う人間には、先回りをして対処してやればいい。
 それに、最終的に猫が居づらい状況を作り出したのは自分だ。大人気無く怒鳴り、殴り、「無しにしてやる」と、明らかに恨んでいるけど勘弁してやると言う物言いをしてしまった。猫が居続ける可能性を台無しにしてしまったのだ。
「甘、今日は遅いから明日にでも手伝ってくれ。皆も、手空きの奴はお願いするよ」
「何をするんだ」
「決まっているだろう。どこに行くとも知れんあんたの荷物を作るんだよ」
「え――」
「あんな使い難い小刀より良いのをやるよ。剣も、ついでだから槍も用意しよう。火打ち石も袋も新品にしてやる。路銀もやる。安心しろ、全部返してくれなくて良いからな。まだ寒さも酷いだろうし、厚手で大きな雨避けの布もやるよ」
「俺は何もあんたにしてない! それどころか――」
「いや、あんたを追い出す失言をしたのは俺だから、責任は俺にある。気にするな。それに、随分と変わってくれた」
 俺は変わってなんかいない、と猫は呆然として言った。変わった、変わったと言うけれど、実感が伴わない様だ。
「俺の何が、どう変わったんだ……」
「一言で言うと、人間全部に懐いてくれたって事かな。いや、懐くんじゃない。他人を信じたり、頼ったり出来るようになった辺りが、随分変わった。だから翼徳にすぐに謝ったし、甘に洗いざらい話せたんだろう」
 雑木林で出会った時の頑固さの上に雨の様に今日までの事が降り、猫の中に元からあったか、風に運ばれたかして誰かから貰った信用の芽が出たから出来た事だ。出来れば、これを枯らさずに生きて欲しい物だ。
「あ……、袋、俺の荷物入れていた革袋があっただろ、あれ、どうしたんだ?」
「捨てた」
「何で捨てた!」
 案の定、猫は怒った。
「あれは俺の――」
「ごめんな。一言で言うと俺の我が侭だよ。あんたにここに居る間だけでも周りの人間を許して、信じて欲しかったからだ。それに俺は、あんたにもう二度とあんな寂しい言葉を背負わせたくない」
 劉備は猫に言った。どちらかというと、猫の中に芽生えた誰かを信じようとする気持ちに語りかけた。その芽を育てた者――趙雲や甘や除福達――が、そこに入り込んでいるかも知れないと期待した。
「……そうだな」
 長く、劉備を睨み付けていた猫がそう言って唇の両端を少し上げた。紅すら引いていない、古い切り傷の痕も薄く見える唇が、初めて微笑の形になった。
「そう、そんな感じで。たまにはそんな感じで笑って他の奴を信じてやろうや」


 夜中の内に猫が勝手に出て行くかも知れない不安が、何とかして猫を引き留めようと話している間からあった。けれども、言い出せずにいた。
 そうしていたら、趙雲が「ここに居た一区切りとして玄徳様と同衾しないか」と言い出した。猫だけでなく、大部屋の面々が何を言い出すんだこの野郎という雰囲気に沸き返った。甘が猫は女の子扱いされたがらないから、「男と女で一緒に寝る形」は絶対に駄目だと言い、一方で関羽が劉備の不安を代弁してくれた。
 趙雲から見れば、ここまで劉備が引き留めようとしたのだから、将来性の見込めるなかなかの人間だと思うし、劉備と親しくなった人間は大抵一緒に寝てるから別に変な事ではないと言う理屈だったが、突飛すぎる発想に誰もついて行けなかった。
 猫にどうすると訊いても、甘と関羽の言う事は両方とも正しいから勝手にしてくれと言われた。間髪入れずに、甘が劉備と猫と一緒に自分が寝れば形の上では大丈夫だからそうしようと言った。猫の答えはやはり、勝手にしろ、だった。
 だから勝手にしてやった。甘に猫を任せて、寝間着に着替えて寝室で待っていると、今日は寒いからねと言いながら寝間着の上から藍色の綿入れを羽織り、癖の強い赤毛を解いた猫を連れた甘が一緒に入ってきた。同じく寝間着の甘がどうだと言いたげに胸を張っている。
「ほら、一緒に寝ましょうよ。あの部屋だと寒いし、疲れも取れないでしょ」
 緊張した面持ちのままの猫の手を取って甘が寝台に誘い込んだ。寝台に這い上がる際に見えた猫の膝下は、以前甘が言っていた通りに色白で、しかし傷に塗れていた。甘や端女達が羨ましいと思った。猫が劉備に女としての面を見せてくれる事は多分、未来永劫無いだろう。綿入れの下の寝間着の下の、鍛えた薄い筋肉を覆う白い肌と、それを穢す痣と切り傷の痕を、猫が自分にさらけ出してくれる事はないのだ。
 なんで劉ちゃんの方を向かないの、と甘が怒っている。猫が何か言い難そうにしている。綿入れに邪魔されて首筋から尻までの線も見えないのが残念でならない。布団を手繰り寄せながら、甘が瑞々しいぐみの実の様に唇を尖らせて、えい、と寝台に飛び込んだ。
 ぎい、と寝台が軋んで沈み、猫と甘が寝台に寝転んだ。甘は楽しんでいるが、猫は複雑そうな顔だ。仰向けになった猫の赤い頭に指を絡ませて、紅葉みたいで綺麗だね、と誉めても猫の顔は晴れない。
「どうした。何か言いたいんなら、ちゃんと言ったらどうだ」
 劉備も枕を二人に投げ寄越して、甘にされるがままになっている猫に問い掛けた。藍色の綿入れが白い寝間着の形を際立たせていた。蝋燭の黄色く頼りない光の下、影が強調されて猫の肢体がはっきりと見て取れた。サラシを外し、緩やかに盛り上がる胸の形と、昼間に見た脚力を支える腰から尻にかけての線は、甘達とは随分異なっていた。この子は武人なんだからという甘の言葉を思い出し、剥いて、触り、誉めそやしてやりたくなる気持ちを抑えて猫の額に手を置いて撫で回し、目蓋の上まで手を置いた。劉備の手のひらに睫が触れて、猫が目を閉じる気配があった。
「……奥方様達は優しいし、関さんは時々気まぐれにだけど兵法を教えてくれる。趙先生も良い奴だ。張さんも、昨日初めて誉めてくれた。身のこなしが良くなったって、言ってくれた。……皆何で優しいんだ。俺を手なずけて、女衒や酒家に売りつけようとする奴が居ないのは何でなんだ」
 何でだ、答えてくれよ、と呟き続ける猫の声に、ふざけていた甘の動きが止まった。
「全部、劉ちゃんのお陰だよ」
 仰向けになった猫の横に寝転び、甘が耳元に囁いた。同時に甘が猫を包んでやって、と言う様に劉備の手を引いた。
「劉ちゃんが凄く優しくて、凄く素敵な人だから、皆が劉ちゃんの真似っ子をするの。だから、皆劉ちゃんみたいに優しくなれるの」
 布団を手繰り寄せて被せようとする最中に、仰向けになった猫が甘の方に寝転んでしまい、劉備からは猫の背中しか見えなくなった。
 けれども、聞こえた気がする。布団と敷布と、寝間着がこすれ合う音の中に小さく俺もそういう風になれるかな、と囁く猫の問いに甘がなれるよ、あなたも、もう充分優しくて良い子じゃないのと答えた声がした気がした。
 劉備が掛けた布団の中に猫の頭が潜り込んでしまった。腕を伸ばして甘の肩を寄せると彼女は子供と一緒に寝てるみたい、と笑って言った。布団の中から、泣きじゃくる声でうるさいと抗議の声がした。


 翌日は朝から晴れだった。西の果てから来る砂埃も洗い流された、まっさらな、猫を追い出そうとするかの様な青い空だった。今日ほど晴れ上がるのを恨めしいと思った日はなかった。最初は屋敷の門から見送るだけ、と決めていた筈なのに、何となく歩き続けて、街の縁まで来てしまった。別れ難いとは、こういう気持ちを言うのだろう。街中で関羽と張飛を従えて歩く様に見える一団は相当に目を引いて、幾人かの野次馬まで付いてきてしまった。
 荷物の道具はすぐに揃えられた。行く当てすら定まっていない旅という事で、固い革の長靴の中に詰め物をして、猫の足に大きさを合わせたり、仕舞いかけていた厚手の布を冬物の道具の中から引っ張り出したりした。剣と長物を幾つか持ってきて、振り回して、手に馴染む物を選んだりした。
 関羽と徐福が読み物は要らないかと言い、張飛が別れ際の記念に一杯飲んでくれと言った。糜竺も、どこに隠していたのか貯めた金の一部を渡そうとした。猫はその全てを次に会った時に、と言って辞退した。
 そうしている内に猫の出立は昼過ぎになってしまった。
 晴れ渡る、雲の切れ端すらない空。瑞々しく春らしさを増してきた緑の大地。これが別れの為のものかと思うと、天地が憎らしくなってきた。
「そういや、俺、あんたの名前を聞いてなかったよ。これも何かの縁だし、教えて貰えないかな。それと、玄徳って呼んでくれよ」
 そう言う劉備の声に、猫は開き書けた口を閉じた。ほら、言いなよと催促する劉備の何度目かの声に、やっと自らこじ開けるように語り出した。
「……俺は、まだ、あんたの力になれないから。だから、次に、もし、会えたら……。その時はもっと強くなっていて、もっと賢くなっていて……、もっと、あんたの役に立てる俺になっておくから、その時に……」
 猫は言葉を選びながら、ゆっくりとそれだけを喋った。
「皇叔様」
「玄徳で良いって言ったじゃないか」
 猫が一層顔を近づけてきた。劉備の細部を目に留めようとする様にまじまじと眉から鼻梁から見ている。
「何だ、俺に惚れでもしたか? 名残惜しくなったのか?」
「……そうだな。俺はあんたに惚れた。でも、皆には内緒にしていてくれ。いつか、皇叔様の天下作りに手伝いに行くつもりだから。その時までに生きていたら、ぜひそう呼ばせてくれ」
 まるで恋人に囁いている様に、猫の声は年相応にうぶで熱っぽかった。山吹の瞳の中に、赤がせわしなく渦巻いている。
「それまで、死なずにいて下さい」
 劉備は笑った。それは、あんたの方だよと言いたかった。
「解った、約束しよう」
 拱手し、一礼して猫が背を向けて歩き出した。昨日までとは全く異なる、青い地平と空の間を目指して遠く、小さくなっていく背中へ、張飛が腹の底から死ぬんじゃねえぞー! 死んだら許さんからなーこの野郎ー! と怒鳴って、それに猫が、肩に担いだ槍を大きく振って応えた。

 

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