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何も言わないで・後編

注意書き

・SR魏延×UC馬岱(女体化)です
・五万字近くあります

・投稿字数制限の都合で三章立てになりました。こちらは後編です。ついでまでに、追記文が長すぎるという事でイレギュラー形式な投稿になっちゃいました。すいません。

③ 菊華の蝉・前


 本陣に行って何かを諸葛亮と直接話して、それから魏延は馬岱に対してよそよそしくなった。組み手の条件が厳しくなり、以前は少しは手加減してくれていたのに、今は本気で殴ってくる。何かの用件を言いつける時もいつも苛立っていて、すぐに怒鳴った。
 それでも馬岱は魏延に従った。信用すると言ったのだし、こうも彼が苛立っているのは、色んな原因があるだろうが、戦線の膠着状態や丞相の体調が思わしくない事等、沢山の、自分の力の及ばない所で起こっている様々な事に対して怒っているからだろうと思った。ならば、せめて自分だけでも彼の思い通りに動かなければと思った。言われた通りの仕事をしたし、望むと思われる雑事も進んでやった。それでも時間は余った。
 何かする事は無いかと訊いても返ってくる答えは常に同じで、つべこべ言わずにとっとと休め、だった。
 自分は何か彼の気に入らない事をしただろうかと馬岱は不安になるが、どれだけ訊ねても不機嫌そうにしているだけで、返事をくれなかった。
 そして、古参の配下達と漢中を守る為の会議を始めた。天然のでかい壁を要領よく使う為にどんな布陣や施設、人員が必要だろうかと話していた。それを馬岱は魏延達の話の輪からずっと離れた自分の寝台で聞いていた。夜中にその話し声で目が覚めたのだった。
 五丈原から帰った後の事になるが、と魏延が前置きして話し出した。――丞相が居ないから大きな作戦は出来ないだろうが、これ位の、この程度の人員位なら割けるだろうと推測しているが、実際はまだ解らない。
 帰った後、と確かに魏延自身が言っていた。帰る事なんて出来ないのに、と言ってやりたい気持ちが馬岱ののど元までせり上がってきた。
 馬岱は話に加わらせなくて良いのかと、配下の一人が言った。
 ――あいつは兵卒だろう。俺が単に前歴を買って将扱いしているだけだ。それに女だ。あいつの旧来の配下ならいざ知らず、新しい兵隊が素直に従うか? あいつの使える兵隊は無いも同然だ。それに実は貴様等も、腹の底では女の癖にと思ってるんだろう。だったら尚更無理な話だ。それに、俺から一本も取ってみせる事も出来ない小兵だ。
 魏延は自分の方に一瞥もくれずにそう言った。固く、険しく、近寄るなと唸る狼の様な声だった。あからさまに不機嫌な声で、配下達もそれ以上は追及しなかった。そして自分も、疲労が詰まった体では何の反応も出来なかった。
 それからの魏延は組み手も取り合ってくれなくなった。空いた時間を埋め合わせるように漢中を守る為の会議を何度も開き、話した内容を纏めてしたため、何枚もの地図に小さな字と色とりどりの墨で沢山の注意書きを書き込んでいった。一度、どんな事を話し合っているのか知りたいと思って手に取ったら、どこで見ていたのか、魏延がいつの間にか居て、貴様には必要ない、関係ないと言われ、取り上げられてしまった。読ませてすらくれなかった。
 今日も魏延は本陣からの定期連絡を受け取って、読んですぐにそれを破り捨て、会議の為の将達を呼びに幕舎を出て行った。いつ休んでいるのか判らない程魏延は動き回っていた。
 魏延が完全に相手をしてくれなくなった。話もしてくれなくなった。あまりにも酷いと馬岱は思った。時間だけが虚しく残り、残った時間で兵卒達に混じって体力の限り組み手をした。一度休んで汗が引いた、疲れ切った体を引きずって陣に設けられた馬場に向かった。
 馬場で出番を待つ裸馬達の中には魏延の馬も居た。他の馬よりも一回り半程体格の優れた馬は、当分乗るつもりが無いと見えて鞍も何もかもを外していた。大体の馬には飾り紐や帯はそのままに、後は鞍を据えるだけという感じになっている。鹿毛の馬なのに、名前は黒と言うらしい。なぜ黒なのかと魏延に訊くと、大昔に劉備から最初に貰った馬が黒かったからだそうだ。以来、自分の乗る馬は白かろうが斑があろうが全て「黒」と呼んだ。験担ぎだと言っていた。一度乗せて貰ったことがある。鞍も鐙も何も要らないと手綱だけを頼りに馬の腹を両脚で引き締めて走り回った。あの時の一段と高い光景と自分の馬にはない力強さと、魏延と居合わせた兵卒達が見せた呆然とした顔が今も忘れられない。あの時の魏延と自分は確かに信用しあっていたと思うが、今はただの一方通行になってしまった。彼が馬岱を信用しているようには見えない。
 自分は信用を得るように命じられたのに、魏延の方からぶった斬られてしまった。誰の命令も守れない人間に成り下がってしまった。
 その黒の近くに、たてがみが灰色の葦毛の小振りの馬が居た。自分の馬だ。最初の内はこの馬場に預けて他の馬に虐められないかと不安に思っていたが、そんな事は全くなかった。葦毛は葦毛で上手に馬同士の付き合いをやっているようだった。自分の馬には名前を付けていない。
 魏延の馬に乗せて貰った時は楽しかった、と振り返って思う。今は本当に一人になった。魏延は完全に自分の事を無視し始めて、「影」の中に籠もり、「影」を守る為に躍起になりだした。諸葛亮は「影」から脱するべきだと言っていたから、もしかしたら握りつぶされるかも知れない計画なのに。
 そもそも帰る事自体が出来ないのに。
 自分が殺すのに。
「どれが貴方の馬ですか」
 ふと声を掛けられてそちらを見ると、一人の兵卒が居た。いや、違うと思った。兵卒の雰囲気ではない。周囲に自分とその兵卒以外の人間は見当たらない。自分が一人になる時を狙っていたかのように、やって来た。
「あの、たてがみが灰色の葦毛のが私のです」
「魏将軍の黒を乗り回したと聞きましたよ。手綱一つであんな大きな馬を御せるなんて、やはり涼州の方々は天賦の才がおありなのでしょうかね。聞いたところに拠りますと魏将軍があの馬を買い求めた理由は気性の荒さだそうですね。物怖じしない、先陣切って駆けてくれるだけの力が欲しいという理由だそうで――」
 馬岱は何も言わずに柵にもたれたまま手を差し出した。与太話をしにわざわざここまで来たのではないでしょう、という気持ちを込めた。
「いつ気付きました?」
「声音で何となく判りました。貴方はあの時に枝を投げた丞相の間者でしょう」
「あれは私の兄です」
 兄弟揃って間者なのは本当だろうかと思ったが、まあいいやと思った。そんな枝葉の事は今は必要ではない。
「丞相の具合はいよいよ悪くなっております。眠れない程の咳が続き、果たして息が出来ているのかと不安になる程です。加えて全ての仕事が丞相に集中するわけですから、その激務たるや、最早人間業ではございません」
「後方は戦線をどう見ておいでですか」
「私次第だ、といつも仰っておいでです」
「……やはり私が一番手で、二の手三の手が貴方達なのですか」
「将や士大夫の皆様の話を聞いている限りはその様です」
「何故私なんかを……」
「それは判りかねます。ただ、魏将軍が貴方の事をいたく気に入っているという事は我々を通じて皆が知っておりますので、それを利用したのかも知れません。楊長史が特に貴方を推しておりました」
 楊儀が自分を推したのは魏延への当てつけだろうと、何となく思った。お気に入りに裏切られて殺されるなんて面白かろう、という魂胆だ。
「魏将軍からの信用を、切り捨てられてしまいました……」
「我々で魏将軍の動きを余さず報告し、丞相方が判断されましたが、問題はありません。将軍が三度同じ事を叫んだら殺すように、とのお達しです。それまでは何があっても離れずにいて下さい」
 間者はそう言って馬場の柵から離れていった。最前線の陣で、蜀の兵卒の袍や具足を着ているとは言え、他所の人間が居るのを許しているという事実が馬岱には恐ろしかった。同じ事を既に魏軍がやっていたらと思うと一層恐ろしい。荊州訛りの人間を紛れ込ませれば簡単に同じ事が出来るだろう。
「ご安心を。魏軍の間者は居ません。さすが魏将軍ですね」
 馬岱の心中を察したように間者が言った。けれども、それを素直に信じたい気持ちにはなれなかった。背中越しに振り向いても間者は居なかった。
 日が落ちる度に、世界の全てが冬に向かって冷え、凍り付いていく。魏延と自分の間にあった細い蔦葛に似た繋がりはとっくに枯れ落ちてしまったのかも知れない。否、蔦はしぶとくまとわりついたまま枯れるから、本当は蜘蛛の糸より脆い繋がりだったのかも知れない。そんな人間がただ付いて来ても魏延は疑わずに、殺さずにいてくれるだろうか。以前ふざけて口付けしてくれた時の様な笑みをくれるだろうか。

③ 菊華の蝉・後


 自分は成都に戻る遙か手前で死んでしまうらしい。馬岱の手に掛かって。否、そうでなくても、仮に馬岱を殺しても何らかの手段で自分は葬られるのだ。多分正月には生きてはいまい。先帝陛下の大樹は次の世代が暖を取る為の薪になるのか。だから、その下で涼んでいた者達には消えて貰わなければならないのか。現陛下の樹が大きく成長する為にも、大樹の蔭は要らない。日なたを作ってやってくれ、と、そう言う事か。それならば、蜀の庭師は下手くそ揃いだと思う。何も木を切り倒す事はない。枝を剪定すればいいじゃないか。それとも枝が恐ろしいというのか。枝にへばり付いたやどり木の方が脅威だと言うのか。
 それだけ判れば充分だと思った。やる事の優先順位が自ずから決まっていった。馬岱を構う暇は無くなった。自分の代わりに蜀を守る要素が必要だった。それは、自分の思い付く限りでは、険しい山々と今自分が率いている部下達だった。彼らに、この山道を最大限に使った守りの陣や、新たに砦を築くとして有効な位置や戦い方等を考えさせなければならない。考えさせると言ったが、決して丸投げはしなかった。いつも傍で様子を見守り、穴があれば埋めた。当然ながら、馬岱に構って組み手をしてやる暇など無くなった。
 馬岱はそれでも、少し不満げな顔をするだけで文句を言いに来たりはしなかった。本当は沢山言いたい事があるのだろうけれど、その一部があの表情になっているのだと思う。
 そして来るべき時に備えてか、馬岱は一人でも、兵卒を相手にしてでも稽古をした。独りにされてしまったと考える時間すら疎ましいのだろう。見ている方が居たたまれなくなる程に哀れな奴だとしか思えなかった。
 それでも、申し訳ないと思っても、馬岱には構わなかった。構わないでいる方が、彼女は自分を嫌ってくれる筈だと思ったからだった。自分と馬岱の仲を察している将からどうしたのかと訊かれても、何とも答えにくかった。実は嫌って欲しいのに、上手くいかないとぼやくと手遅れだし、人の心は相当な事をしない限りどうしようも出来ないと言った奴が居た。
 そうしている内に諸葛亮が死んだ。本陣からの定時連絡で一日毎に具合の悪くなっていく諸葛亮の事を知っていたから、別に驚かなかった。ただ、ふざけた口調で書いてしまった手紙の返事が無かったのが残念だった。そして、とうとう殿軍の役を果たす時が来てしまった、と思うだけだった。それを報せる使者として費?が来た。
「殿軍を、改めてお頼み申し上げます。また、軍権についてですが、丞相は楊長史に任せられました」
「……まともに馬に乗った事も無い奴が、丞相の跡継ぎか」
 椅子に座り、割れた筆を指先で回しながら言葉を交わした。眉間に不快感を露わに刻んで魏延は唸り、机に肘を突き、もっと態度をぞんざいにしてやった。けれどもそれ以上は何も言えない。そして、言う必要もないと思った。殿軍の件はずっと前に、諸葛亮から直々に頼まれていた事だ。それを今更確認しても何になると言う気持ちが沸いた。
「間者を飛ばした訳じゃない。俺の勘だ。もう、本陣なんて跡形もなくて俺の陣だけが残されているんだろう?」
 費イの顔色は変わらない。だらしない態度に怒っているのか、早く帰らせろと思っているのか、どちらかは知らない。
「まあ貴様が答えてくれなくとも、本陣に急げばいずれ判る事だ。けれども、どうしてこんな事をした。そこまでして俺を殺したいか」
 手駒を無くしたいか。ただのやどり木がそんなに疎ましいか。
「それとも、貴様等は俺を持て余すと自明の上でそんな結論を出したのか」
 費イの顔に苛立ちと怒りが僅かながらに浮かんだ。「持て余す」らしい。貴様等に俺を乗りこなせる程の者は居ない、と馬鹿にされたと怒っているだろう。
「まあ、もうなんだって良いさ。俺が従うのは丞相の遺命だ。貴様等の筋書きじゃない」
「はい、左様でございます。殿軍を、どうか――」
「言われなくても判っている。きっちり貴様等全員成都に帰してやるさ」
 とっとと帰れ、と手振りで促すと費?は一礼して引き下がった。
「ところで、貴様等の筋書きでは俺の役所はどうなっているんだ」
 費イは魏延の問いには答えずに幕舎を出て行った。
 許可を貰えず、幕舎の外で成り行きを見守るしかなかった馬岱に向かって、費?が何事かをすれ違い様に呟いて行った。それを、首を巡らせて馬岱が見送る。表情は全く判らない。費?の背中と、馬岱の半分ひねった上体しか判らない。風をはらんで落ち葉のような色合いの彼女の長いマフラーが幟の様にうねった。
 入れ、と促すとようやく馬岱は幕舎に足を踏み入れた。立ち止まる馬岱に、まあ、近付いてくれと手招いた。
「聞いての通り、俺達は殿軍だ。貴様には物見の数騎の兵をくれてやる。それで本陣の様子を見て来い。後は心配するな。ここの辺りで今日の夕刻、日暮れ前には落ち合うようにしてくれ」
 馬岱をすぐに呼びつけて、地図を前に説明した。馬岱は素直に頷いたが、その顔は晴れない。付け加えて、馬岱に預ける兵士は選りすぐりの自分並みに強い兵だし、学もあるから貴様に手を出すなんて事は考えんだろうと言った。
 そんな問題じゃない、と言う様に馬岱が首を振った。
「費に、何て言われたんだ?」
 久し振りにこいつと言葉を交わしたと思った。あれだけ嫌い、無視する素振りをしたが、以前のように答えるだろうか。
「あの人は、文長殿に酷い事を仰っておいででした」
 眉根を寄せて馬岱は言った。魏延には直接に絶対に言えない、言いたくない程に屈辱的で理解が出来ない。そんな事を言われたのだろうと想像に難くなかった。前のままの馬岱だ。あんなにつんけんしてやっても尚、飼い慣らされた犬の様に自分に付いて来るのを諦めないのだ。あんなに嫌われようとしたのに、あれだけ無視してやった自分の苦労は一体何だったのだろうか。
「……まあ、無理には訊かん事にしよう。本陣の様子を見たらすぐに引き下がって良い。必ずここへ生きて着いていてくれ」
「はい」
「宜しい。では早速、行くぞ」
 有無を言わさずに馬岱の手を掴み、陣内を巡った。馬岱は引きずられるように一生懸命付いて来る。握られた手首を振り払おうともせず、魏延の歩幅に合わせて小走りで付いて来る。息切れし始めたようなので、つい歩く速さを落としてしまった。そうして歩き回りながら陣内に居る、本陣への物見の兵を探し出し、一人一人を馬岱に付けてやった。馬岱と彼らはそこそこに仲が良い様子だった。自分の知らない内に、兵達は馬岱の組み手の相手でもしてくれていたのだろう。
「生きてだ。頼んだぞ」
 そう言って地図を渡し、馬岱に背を向けて歩き始めた。
「それでは皆さん、魏将軍のお達しです」
 馬岱の張りのある声が、男達の喧噪の中で一際目立って響いた。振り返る者も居る。格好良い声じゃないかと魏延は思った。
 そこからは、殿軍の役を果たすだけだった。
 陣を出来るだけ素速く片し、その一方でちょっとだけはみ出たような形の魏軍の、ある陣に殴り込みを掛けて、その後は追い掛けて来る魏軍との距離を測りながらの逃走が始まった。こちらは知っているが相手にとっては不慣れな入り組んだ山道を使って罠を張り、幾つかの魏軍先遣隊と、道に迷った本隊崩れの兵達を殺した。
 その内に、昼を過ぎた頃に馬岱からの連絡の兵が来た。本陣は人影一つ見当たらず、随分前から丁寧に撤退していった様に見える程、捨てられた荷物も何も無かったと彼は言った。その兵に馬岱から集合場所について聞いているかと訊ねると既に理解している様子だったので、そこに向かい、先に馬岱と合流するようにとだけ言付けた。
 日が傾くにつれて、追手の魏軍の勢いは山道と罠と奇襲に阻まれて、徐々に数が減っていった。幸いだった。もしも諸葛亮の死が既に魏軍に伝わっていて、そこにつけ込んだ、最前線と中心部の統合が取れずにどう動けば良いかも判らない烏合の衆にも等しい自分達への、的確な対応をされていたら、自分の部隊の損害は大きかっただろうと思う。
 日が暮れていく。魏軍の動きも弱まり、ついには追って来る者は居なくなったと最後尾の部隊等から連絡があった。上出来だった。後は全隊、馬岱と示し合わせた場所へ急ぐだけだ。馬は泡を吹き、人間も疲れて手綱を握りきれずに落馬する者も居たりと、朝から走り続けた所為で限界だった。早くあの場所へ、との気持ちだけしか無かった。本陣に置いてけぼりを喰らわされた事は今吼えてみせた所でどうしようもない。後回しだった。
 日が落ちた。街道ならまだ薄暗い程度で済むだろうが、山の中は真っ暗だった。日が高い内から用意させていた松明を持たせて走り続け、ようやく目的地を望める山の頂に着いた。枯れ上がり、岩だらけになった沢の中に一つの炎があるのが見えた。馬岱達の一隊だろう。あと少しだ、と将兵を叱咤して山を駆け下りた。
「ご苦労だったな」
 炎の周りの馬を休ませている人影が立ち上がり、口々に魏延を呼んだ。
「我々は疲れてはおりません。この先に木立がありますから、将軍方はそちらでお休み下さい。見張りは、数は少ないですが我々が行います」
 馬岱につけた兵卒は、一人も欠ける事無く辿り着いていた。昼間に状況を伝えに来た伝令も、その中に混じっていた。
 そうだ、休もう、と思っていると、気配がする、と愛馬の黒が首を巡らせた。山の尾根の向こうに何かの光の照り返しが見えたのが同時だった。光はすぐに無数の松明とそれを照らす一軍になって、沢に集まった魏延達を取り囲んだ。状況は不利だ、と頭の片隅で駒の自分が結論を出した。
「追っ手だ!」
 誰かが叫んだ。そんな筈はないと否定する声がする。
「これは魏軍の動きじゃない、味方だ!」
 将の一人がそう言った。松明の一部が軍からこぼれ出て、魏延達に向かって降りてくる。
「身構えるな! 魏軍が来ないのは貴様等が既に見ているだろう!」
 魏延は疲れた居ずまいを正し、降りてくる松明の方へ歩み寄った。夜の迫る暗さの中で、相手の顔がおぼろげに確認できた。風はないのに松明が揺れ続けて、ちらついて解りにくかった。
「王将軍か。撤退は済んだぞ。それと、本陣は何故あんなにも綺麗さっぱり上手く撤退しているんだ」
 王平は何も言わなかった。砂利を踏みしめて歩き、魏延と、互いの顔がやっと見える位の距離で立ち止まった。何か言ったらどうだと思っていたら、王平が重く口を開いた。
「……丞相のご遺体の冷たくならない内から勝手に軍を動かし前線を引き上げ、何の指令もなく魏軍に勝手に戦を仕掛けるとは、何と身勝手な行動であろうか」
 その言葉に、魏延だけでなく将兵も騒ぎ出した。
「何を言う、俺は丞相直々の命令で殿軍を務めただけだ! 今朝方来た費だって言ってたぞ」
 手振りで背後の兵達に黙れと伝え、魏延は王平に向かって怒鳴った。話が違う。あちらの台本が、誰かの手によって入れ違えられてしまったかの様だ。
「既に魏将軍に謀反の疑い濃厚との早馬が、成都に向かっておる」
「誰の指示でだ」
「楊長史だ」
 楊め、費め、と喚き立てる声が背後から起こった。自分が、諸葛亮が書いたと思っていた台本は実は士大夫達による物だった様だ。自分は成都に帰り着く遙か手前で死ぬという諸葛亮に無理矢理聞き出した話が、馬岱のささやきと重なって、強く現実味を増してきた。
「黙らんか!」
 将軍は何もしていない、お前達が将軍を置いてさっさと帰ろうとするからこんな事になったのだろう、と古参兵が叫ぶのを怒鳴って止めさせた。
「悔しいが、こうなってしまっては、王将軍の言う事が正しい」
 配下達にどよめきが拡がった。遺命という形でまだ、諸葛亮は生きている。遺命と言う筋書きに従い後方の本陣は風よりも速く退がってしまい、前線に残っているのは魏延達だけになった。そしてその筋書きに、楊儀や費?が「魏延が謀反を起こした」と筆を加えた。魏延はそう考えた。
「丞相はまだ命令という形でご存命だ。自らは二度と動けないが、俺達を動かせる力をまだ持っている。それとも、貴様等は謀反を企てた濡れ衣でも着たいのか、被せられたまま殺されたいのか?」
 将軍こそどうなさるのですかと誰かが言った。
「俺は貴様等の身の上の事を話しているんだ! 俺に従えば貴様等まで一蓮托生で殺されるのだぞ! 折角の経験のある兵達がごっそり無くなるんて俺は認めん! さっさと帰順した方が貴様等の為だ! 俺の酔狂に付き合える奴だけ残れ! 後は知らん!」
 威嚇する様に腹の底から、一日中指示を飛ばし続けて嗄れた声音で吼えた。そう言ってやると、随分悩んだ面持ちで騎馬が一騎、隊列から離れるのが見えた。それにつられるように、数騎が続き、或いはしばらく動かずにいて急に馬首を巡らせて行く者が居た。ある者は隣の者に説得され、ある者は一人で、そういう風にしてひずめの音が幾つも去っていく。
 兵達がわらわらと隊列から離れていくのを隊長格が止めさせようとする。放っておけ、と魏延は叫んだ。幾人かの将が魏延に馬を寄せて、何故私達だけ降伏させようとするのか、と口々に訊ねてきた。
「楊どもが用事があるのは俺だけだ。俺一人に対してだ。何も貴様等まで付き合う必要は無い」
「軍権をちょっと預かっただけの楊なんかに……!」
「楊じゃない。諸葛丞相の命令だ」
 将達が口々に不満を言った。うるさかったけれども、言わせておいた。
「……私は楊長史こそが謀反を企てていると、陛下に急ぎ帰ってお伝え致します」
「いや、間に合わんだろう。止めておけ。王将軍に従っておけばいい」
 その将は、納得するものかという様に首を振った。仮に間に合った所で、皇帝の周辺に居るのは楊儀や費?の肩を持つだろうと想像に難くない連中ばかりだ。それを解らないでもあるまい。
「……判った。貴様の好きにしてみろ。責任は俺が持つ。いざ責められたら、自分はただの使者に過ぎない、と言っておけ」
 将が何かを言い出すよりも早く魏延の方から許可を出した。後半の、魏延を切り捨て、裏切れと言うにも等しい命令に一瞬その将は顔を引き攣らせたが、それでも拱手をして去った。
「ほら、とっとと貴様等も行け」
「将軍はどうなさるのですか、漢中の守りは――」
「仕上げは貴様等でやれ。あそこまで錬れば後は枝葉末節の問題だ。俺が居なくとも、誰がやっても出来るような陣形になっているはずだ」
 そして魏延は嘲笑うかのような口元を作って笑ってやった。いつも笑う時はこういう口元になる。知らない奴が見れば馬鹿にしていると勘違いするかも知れない。けれども、こういう笑い方しかしてやれない。
「頼んだぞ、皆」
 蜀がどれだけ生き存えられるかは貴様等に係っている、と会議の際に何度も言った言葉をまた言った。
 そう言うのなら仕方ないという態度で、将達は重い足取りで馬を歩かせた。ある者は名残惜しそうに寂しげな目つきで、ある者は諸葛亮への抗議のように憤慨した顔で、各隊に残った兵達を率いて魏延の元から離れていった。
「魏将軍は何もしていないのに……!」
 最後まで残った将は捨て台詞のように叫び、一隊を率いて駆け去った。馬達がたてた土煙の中に影が一つ残っていた。焚き火の傍にある小さな影だ。松明と焚き火の光をぼやけさせる土埃が収まるのを待たなくてもそれが誰かは一目瞭然だった。何も言わず、納得しなかった将の様に魏延に迫りもせず、ただじっと馬の手綱を握って馬を宥めながら全てを眺めていた。そいつの馬も主の意図が判るようで、周囲の馬達が次々に列を乱して逃げていくのに踏ん張り、動じずにいた。
「馬岱。何故残った」
 馬岱は、これがあれば充分だとでも言う様な穏やかな顔で葦毛の首筋を叩き、魏延を見返して答えた。
「私は貴方を裏切らないと決めたからです。それに私にはもう、何も残っておりません」
 凛とした声だった。嘘を吐け、と思った。最初から士大夫達の台本による物だと解って動いていたくせに。
「馬氏の社稷はどうするんだ」
「もう、どうでも良くなりました。私一人の力ではどうしようもありません。野に下ったところで、今よりも良い暮らしが出来るとは思えません。私は今のやり方でしか生き方を知らないものですから」
 今のやり方とは多分、軍馬を率いて戦ってみせる男の真似事の事を言うのだろう。針仕事が出来るかどうかは知らないが、今更畑仕事をやろうにも要領が判らず、糸を紡げず、機も織れない女なんて、蜀漢中を探しても彼女しか居ないだろう。
「どうでも良いのなら、死んでみるか」
「それも良いですね。出来れば、貴方の手に掛かって死にたいものです」
「上手い冗談だな」
「まんざらでもありませんよ」
 王平達の軍が砕け散った魏延達を見ている。もう二つの欠片しか残っていないとあちらからでも判るだろう。そして多分、残った一人が馬岱であるという事もとっくに知っているのだろう。策だとか予定だとかの一環で。
「本当は、今はどうすればいいのか判らないんだろう?」
 意地悪く笑って見せた。あの夜の夢現の境にあったものを現実にする為だけに馬岱は居る。
「惨めだとは思わんのか、魏将軍」
 王平が声を掛けた。山道を歩く魏延の兵馬達の立てる足音の所為で酷く聞き取りづらかった。
「思わんな」
 納得の上だ。気がかりも何もない。謀反者とひっくるめて三族皆殺しにされて家が断絶する事と、味方、しかも馬岱などにではなく、雑兵でも良いから敵兵に殺されたかったのが叶わなかったのが惨めかと言われればそうかも知れない。
「俺の役目は終わった。魏軍の追撃を損害も少なく追い払い、殿軍の役目を果たし、こうして王将軍に追い付いてきた。いや、将軍が俺達を見張っていたのかも知れないな。そして生き残った将兵は皆貴様に降った、と。そう言う筋書きの場面なんだな」
「筋書きだの役目だの、魏将軍は何を言っておられるのか」
「何でもない。ただの俺の独り言だ」
「では、行くが良い、魏将軍」
「どこへ行けと?」
「すぐに解る」
 追って来いとも休んで来いとも言われなかった。王平はそう言って松明を持った兵に指示を出し、尾根を上っていった。松明の明かりと地鳴りの様な足音が消え、やがて虫の鳴く声が静かに聞こえてきた。音が聞こえなくなるまで馬岱が動く気配はなかったし、魏延も何だか動く意味を見出せなかった。
「馬岱」
 マントを外し、乱雑に丸めて投げてやった。一日中叫び続けて喉が痛み、声がかすれていた。少し咳き込んだ。
「野営だし、二人きりだ。今晩は冷えるだろう」
 そう言ってしまったら陣中であくせくと、嫌われようともがいた事が全くの無駄足だったように思えて、逆に馬岱に謝らなければならないという気がしてきた。
「陣中では済まなかったな。構ってやれなかった」
「いいえ、文長殿はお忙しそうでしたし、私が口を挟んでも何も出来まいと思ったのでした」
 馬岱はただ批難するでもなく、貰ったマントを抱え込んで俯いていた。本当は以前のように色々と構って欲しかっただろうし、会議にも混ざりたかっただろう。組み手の一つでももう一回でも良いから構って貰いたかった筈だ。
「それはやろう。成都に帰ったら返してくれ」
 馬岱は答えなかった。動かずにいる馬岱が抱えたマントを取り戻し、広げて馬岱の肩に掛けてやった。肩幅も裾も相当に余っている。白く毛足の長い毛皮が首筋から耳までを覆い隠し、白い頭と融け合っているようだった。マントの両端の赤い三角の飾りの縫い取りが馬岱の胸の前で交差できた。こんなにこいつは小さかっただろうかと、魏延は不思議な気分になった。
「……貴様、よくもこんな小さな体で戦なんかやれたもんだ」
 立て膝を突き、馬岱の胸の前で合わせたマントの両端を留める紐のような物が無いかと思って手荷物をまさぐっていると、馬岱の両腕が肩に回された。殺されるのではないとすぐに判る程に力の入っていない腕が魏延の頭を包んだ。
「おい、俺は餓鬼じゃないぞ」
「文長殿が、裏切り者に、反逆者に仕立てられるなんて……」
 可哀想でならないと、頭を抱きすくめて胸に寄せ、愛おしむように魏延を包み込んだ。
 こんな事をされるのはいつ以来だろうと思った。まだ記憶も定かでない頃、母親に抱かれてあやされたり、慰めたりされた事があったのかも知れない。
 それも、自分が明日生きているとも知れなかった昔の話になる。
 馬岱の抱擁は時間をさかのぼり、自分が弱い人間に再び成り下がったのだと痛感するに足りる行為だった。それでも甘んじて受けた。
「そうか、費にはそう言われたか」
「貴方は誰も裏切っていないのに、裏切りようがないのに。以前私に先帝陛下のお話をずっとして下さった事がありましたよね。それほど、この国の根幹に尽くし続ける貴方がなぜ、蜀漢を私する為に勝手な行動を始めたと見なされなければならないのでしょう」
 うん、解ったから、と言いながら馬岱を宥めて、干し飯を食べて寝ようと言っても彼女は手を離さなかった。
「冷えます。寒いです」
 馬岱がそう言うから、仕方ないと思った。愛馬と馬岱の馬を呼び一塊になり、その腹に互いの体を寄せて折り重なり合うようにして寝た。
「馬岱、そう言えば、貴様の馬は何という名だ」
「名はつけておりません」
 情が移るから、と腕の中で馬岱が呟いた。一族が消えてから思い付く限りの事をして寂しさを紛らわし、誰かと距離を保ち続けて寂しさを忘れようとしていたのに、と言っている様に思えた。自分が胡蘆谷の後から彼女にしてやったのはただのお節介で、本当は何も彼女の為になっていなかったのかも知れない。逆に酷い事をしていたのかも知れない。
「まだ寒いか」
「まだ……。もっと寒くなるから……」
 馬岱の言う声に、魏延は反応した。


 闇の奥の、ずっと遠くの方から自分を呼ぶ声がする。それで目が覚めた。
 月明かりに照らされて、腕の中に抱き込んでいた筈の馬岱が目の前にいた。
「何が起こった」
 自分を無理矢理起こしてまで伝えなければいけないことが今更あるのだろうかと思った。腹の上で組んでいた手を引っ張った。それにつられて起き上がると、愛馬が立って待っていた。馬も、自分と同様に馬岱に叩き起こされたと見えて不機嫌そうにしていた。馬の背には荷物の包みがいくつか括り付けられていたが、どう見ても行軍用の物とは見えなかった。
「何があった。こんな事をして」
 馬岱が魏延から借りていたマントを外して畳み、差し出しながら言った。
「魏将軍、お逃げ下さい」
「は?」
「私は、あなたを殺してしまいます」
 文長殿、と呼ばなかった。今の彼女はただの部下としての立場からこれを申し上げている、と暗に語っていた。自分が死ぬ時が近付いているのだと悟った。けれども馬岱は、どうしてもその筋書きは嫌だと言う。
 話が見えない振りをした。馬岱の悪い冗談だと思って演じることにした。
「下手な冗談だな。嘘だろう」
「本当です」
「何で」
「以前、夜中に将軍に打ち明けましたし、もう本当はご存知なのでしょう」
 士大夫達の台本の。知らない振りをする事で、とうとう彼女に嘘をついてしまったなと、頭の片隅で思った。
「あなたがここで逃げても、私が適当な首級を作って差し出せば文官達は欺けます」
「そんなことが通用するのか。第一俺並みに頭の赤い人間なんて、そうそう居るまい」
「あなたよりは口先は達者です」
「ふん、言いやがる。少しでも疑われたら、また鞭打たれるぞ。今度は三十や五十ではきかないかも知れない。貴様が音を上げるまでずっとだ」
「言うぐらいなら死んでやります」
「鞭打ちならまだいい。気絶できるからな。生爪剥がれたり、指を少しずつ切られたり火で炙られたり、死なない程度に苦しませる方法なんていくらでもある」
「将軍、何度でも申し上げます。逃げて下さい。将軍程のお力があれば、すぐにどこでも取り立てていただけますでしょう」
「俺だって、何度でも言おう。貴様の悪い冗談だ。それに俺の生涯の主は先帝陛下だ」
「……将軍、お願いです。嘘でも冗談でもないんです。丞相は自分が死んだ後の将軍の処遇について随分考え込んでおいでで、そこに楊長史達の手による策が上奏されて、この流れで行きましょう、と丞相自ら良しとされたのです。以前、私だけが本陣に行った事がありましたよね。傷が良くなりかけていた頃です。あの頃に既に、私が貴方を殺す事は決まっていたのです、魏将軍。その為に貴方の信頼を得ろと命を――」
「もう良い。もう何も言うな」
 一生懸命に説明する馬岱を制した。士大夫の台本には諸葛亮も目を通していた。そしてそれを許可して、魏延に死んで貰おうという筋書きが整ったのだ。
 愛馬の首筋を軽く叩き、起こしてごめんなとか、何もないから大丈夫だとか馬に話しかけてやった。それでも荒い鼻息は収まらず、むくれた子供のようにふんふんと唸っていた。
「私は嘘なんか吐きません!」
 背後で馬岱が叫んだ。愛馬が驚き、嘶いた。
「そんなの、知ってるよ」
 馬を落ち着かせて手綱を引きながら言った。嫌い抜いた上で、遠慮無く殺してくれたらいいと思っていたのに、結局馬岱は自分のことを嫌いになんかなってくれなかった。いつでも自分の思い通りにならない行動をしてくれる。
 渦巻く気持ちをどう表現したらよいのか判らなかった。馬岱は何と言ってやれば一番救われて、そして大嫌いになってくれるだろう。
 胡蘆谷での事をいじり返すのは止めた。言ってやる自分がつまらないからだ。魏延を信じると決めたからと言う自らの言葉だけを杖にして、必死にここまで付いて来てしまった。今まで沢山の仕事をやって貰った。時折ふざけた事をすると、生真面目なものだからすぐにそれを諫めて止めさせようと躍起になった。側近の死に呆然としていた馬岱を何とかして励まそうとした事もあった。敵わないと知りつつも組み手稽古ではどんな将兵よりも魏延につかみかかってきた。一度だけ、手綱捌きが上手いから試しにと自分の馬に乗せてやると、馬の巨躯を物ともせずに乗りこなして見せた。鹿毛の背で踊る様に跳ねる小さな体がその時ばかりは勇ましく思えた。戦場の真ん中でこの一月半になるかならないかの間に起こった事は、辛くも厳しい事が多かったが、そこに馬岱が絡んでくると、そのどれもこれもが楽しかった。どうして早くに知り合っておけなかったのだろう。今まであれこれと話し掛ける機会なんてあっただろうにと思うと、歯がゆくて堪らない。ただ馬岱が傍に居てくれるだけで自分は幸せだったのだと、今、ようやく気付いた。
「……ありがとう」
 振り返ってそう言うと、自分を見上げる馬岱の顔に未来も退路も断たれた人間の表情が湧き上がり、浸された。この顔を人は「絶望」と言って片付けるだろう。けれども、それ以上の意味があった。今の「ありがとう」の意味を理解し尽くしている表情だった。今まで世話になったとか、逃がす段取りを一応世話してくれた事に対する感謝の言葉ではないと気付いている。どうして進言を受け入れてくれないのだ、何故それを理解してくれないと、語るよりも雄弁に解り易く、その顔にありありと刻んでいた。
「何が、ありがとうですか! 私は明日貴方を殺すんですよ、胡蘆谷での恩義もこれまで色々と守って頂いた事も反故にして、ただ貴方を殺すんですよ! そんな私に、何が、ありがとうなんですか!」
 地団駄を踏み、自分に比べれば短い手足を振り回して叫び、馬岱は怒った。
「私は貴方を裏切りたくないんです、裏切ったりなんてしたくないんです、どうか、裏切らせないで下さい……。私にありがとうなんて言葉を、言わないで下さい」
 俯いて肩を震わせ、時折鼻を啜りながら、嫌だ嫌だと泣きじゃくった。泣いてみせたところで何が変わるわけでもないだろうに、ただ泣いた。
「それに貴方の言葉は自己満足に過ぎません。私には何にもならない、薄っぺらな言葉です。そんな事を言うだけで、逃げない貴方が、貴方が、……大嫌いです!」
 黙っていると、馬岱の拳が振り上げられて胸を叩いてきた。力一杯殴ったつもりでも、魏延には何ともない一撃だった。こんな物を百も二百も重ねたところで、逆に馬岱の拳が痛むだけだ。
「何を思って言ったのかなんて知りませんが、そんな言葉を私にくれる位なら、さっさとどこかに行って下さい!」
 何度も何度も殴られた。黙っていた。黙るしか彼女に対抗できる気がしなかった。何か口を開けば、彼女はそこから色々とこじ開けようと頭を巡らせるだろう。魏延に生きて貰いたいというただそれだけの願いを叶える為に。殴る手が痛んだのか、取り落としたマントを畳み直して魏延に押しつけ、これを持って行け、速く逃げろ、今が考え直す最後の時なんだと言う様に言葉を重ねた。
「逃げて下さい。これだけ頼んでいるのに、何故、何も言って下さらないんですか。いくら何でも我が侭が過ぎます。お願いですからずっと遠くへ逃げて下さい」
「悪いが、我が侭なのは貴様だぞ」
「私は蜀漢を裏切らなかったけれども、貴方を裏切る事になるんです。それだけは嫌ですと以前申し上げた筈です。それに、文長殿が反逆者に仕立てられるのが私には耐えられません!」
「貴様は誰も裏切ってなんかいない。俺も、丞相も、誰の事も、皆に十二分過ぎる程に従っている」
 馬岱が泣き顔のまま自分を見た。
「従う事しか、……私は知りませんから」
「じゃあ、従ってくれ。俺が言うんだから間違いない。俺を殺せ。俺が納得してこの死を受け入れるのだから、貴様も納得すればいいじゃないか」
 マントを押しつける手が緩んだ。落ちかけるマントを魏延が受け止め、夕方の様に馬岱に掛けた。
「こんな物、もう要りません」
「いや、俺が貴様にやりたいだけだ。褒美だと思ってくれ」
「褒美なんて……」
 馬岱が俯き、下腹を押さえた。守る様に、小さな両手の平をへその下の丸い腹に押し当てた。
「それに、約束事の一つすら守りきれん駄目な男じゃないか。もういい加減、嫌ってくれよ」
「……文長殿なんて、……もう、大嫌いです」
 馬岱はしゃっくりでもするように言葉を切って、泣き続けながらそう言った。顔も見てくれなかった。俯いて、肩を震わせていた。
 最後の最後にやっと嫌ってくれた。
 けれども、何から手を付けたらいいのか判らずに、結局ありがとうとしか言えなかった自分に本当に嫌気が差した。もっと正しく、しかし少ない言葉で彼女に本心を伝えたかった。しかし、あれでは言葉があまりにも少なすぎた。
 馬岱がまた、大嫌いだ、と言いながら夜の闇に消えた。
 あのままの勢いで本隊に追い付いて、自分には魏延の寝込みも襲えず命からがら逃げてきたと言って誰かの手を汚させるのが一番良いが、果たしてそうなるだろうか。付き合っていたのは短い間だったが、仕事はさておき、彼女が魏延が「こうあって欲しい」と思った様に動いてくれた事はないから、多分ならないだろう。従い方しか知らない人間の哀れなところだ。
 違うな、と思った。馬岱は命令で、ずっと魏延について行けと言われているのかも知れない。そして、馬岱の心の奥底では、出来るだけ長い間自分と共に居たいと願っているのかも知れない。それが馬岱にとって一番辛い結果をもたらすしかないだろうに。だから逃げたりなんかしないだろう。明日のその時まで、ずっと傍にいるのだろう。
 そして、自分はこれで良いのだ。もう納得したのだから。この国の行く末を穏やかにする為になら何だってやってみせる。


 もっと寒くなるだろうと言った馬岱の言葉は当たっていた。翌朝は霧が立ちこめ、空気は染み入る程に冷えていた。霧が山を覆い、視界は良くなかった。朝早くは霧だった白いもやは時間が経つにつれて細かい雨に変化していった。
 追ってこい、と王平は言っていた。
 どこへ、と思いながら馬岱と共に馬に跨って歩き出した。どこに行かなければならないかはすぐに解った。昨晩、馬岱達が焚き火を焚いて待っていた沢まで戻ると矢に白い布を括り付けた物が地面に刺さっていた。拾い、布を広げて読むと、山を一つ越えた向こうまで来いと言う内容だった。別に逃げても構わない、と道案内の文は結ばれていた。これを書いたのは楊儀だろうか。逃げても構わない、の一文をせせら笑いながら書いたのかと思うと何となく腹が立つ。
 馬岱を促し、馬に跨った。
 布の指示通りに歩き続けると、山の麓の丘に、霧にも雲にも見える白い霞の中に陣が佇んでいた。丘一つを覆う大きな陣だった。諸葛亮の遺命通りに引き下がった本陣なのは間違いないだろうと思われるが、ここまで大きい必要はないだろうと思った。自分達を待つだけの必要最低限の人間が居れば良い筈なのに。
「行こう」
 この国の未来の為に。
「死にに?」
 馬岱の返事はそれだけだったが、山肌を駆け下り始めると、仕方ないといった様子で付いてきた。押し殺した気配が丘からずっと取り囲んでいる様に思えた。多分兵を伏させているのだろうと思った。何も出来ない人間二人にここまで厳重な囲いを用意するとは、一体何の目的で、と思った。自分が馬岱を切り捨てた時の為か、それとも馬岱がし損じた時の為か。いずれにせよ、死体がもう一つ増える時に、この気配は殺気に変わるのだろう。
 物見の兵からの陣の門が開き、わらわらと人が出て来た。中央に、偉そうにふんぞり返る灰色の頭の男が居る。霧の所為でよく見えないが、背後に弓を携えた兵達を配置している様だ。それが合図だったかのように、周囲に伏せた気配が変化した。突然のざわめきと気配の大きな変化に馬岱の葦毛がうろたえた。
「遅かったな、謀反者!」
 叫んだつもりだろうが、それ程大きな声になっていなかった。楊儀の言葉は響きはしたが、霧に吸われる様に響いて消えていった。
「何を言う。殿軍押しつけられて二日でここに来られるのは俺だけだぞ、楊!」
 嗄れた喉の奥、腹の底から叫んだ。戦場での正しい叫び方はこうだ、と暗に教育してやった。喉だけで声を出すな。それは天幕と屋内でしか通用しない吼え方だ。
 馬を降り、後ろに続いていた馬岱も下馬したのを見て、帯びていた大刀を馬岱に預け、前へ進み出た。自分は丸腰だと、百里先からでも解る演技だ。
「降りて来い、楊儀! 何故俺が謀反を起こしたなんて事になっている。説明しろ! 見ての通り俺は丸腰だ!」
 誰が降りるものか、とせせら笑い、楊儀が叫んだ。近付けば血袋になるまで殴り、蹴られると良く解っている様だ。というより、そもそも血袋にしてやれるとその身に教え込ませたのは自分自身だ。
「木犀香っても菊が咲いても鳴く蝉め! 土から這い出て十日も持たぬ命をよくもここまで生きたものよ!」
 楊儀の煽り文句は結構当たっている気がする。そして言い得て妙だと思った。しかし、軍権を手に入れただけでこんなにも尊大に、饒舌になれるのだろうか。
 軍権はただ、他人に動けと命じることが出来る手段の一つに過ぎない。しかも、様々なしがらみに囚われてやっと動かせるものだ。兵糧、兵卒の確保、行軍の手段、民からの税を食い潰さない程度の計画性。そして、出来ることならば小さな力を用いて相手を上回り、かなりの損害を与えられるようなものがあれば、尚それは動かし易くなるだろう。ある人間がそういう力を持っていたら「武人」と称される。しかし、「武」にも善し悪しがある。そして残念ながら、楊儀は武なんて一欠片程も持っていない。
「貴様こそ何様のつもりでそんな事を言ってのけるんだ。まともに馬を駆けさせる事も出来ない奴が丞相の後釜なんぞ、俺は、はっきり言って認めたくなんかないぞ。貴様はそもそも、ただの輜重糧秣の世話係で帳簿をつけるしか能がない癖に!」
「ふん、そこまで言うて見せるのなら、虫けらめ、今ここでその根性を見せてみろ! 三度、自分を殺せるものはあるかと言うて見せろ! そうしたら貴様が謀反者たる所以を教えてくれるわ!」
 背後の馬岱の気配が幽かに反応した。僅かながらの緊張が手のひらにほんの少し滲み出る汗の様な変化だった。
 ああ、本当に俺はこいつに斬られるんだ。そして、今がその時なのだ。
「……わかった」
 来るべき時が来てしまったと思った。自分の首一つで劉備が成したかった夢が最低限度には守られるなら安い代償だと思いたい。自分の死によって、この戦は本当に終わるのだ。
 脇につっ立っていた馬岱が抱えていた大刀を奪い返し、前に進み出た。風が吹く。霧が流れる。マントがあればさぞ栄えて見えるだろうが、生憎馬岱にやったままだ。
 馬岱の顔が悲しそうに歪んでいた。迷子の顔だ。あれが、自分が見られた最後の馬岱になるのだと思うと何だか悲しくてならない。けれどももう、どうしようもない。これから先を上手く演じろよと願うしかなかった。
 大刀を型の様に振り回し、天に――小高い丘の上の陣の先頭に偉そうに立っている楊儀に向けて突き付けた。鳴いてみせてやる。木犀が香り水が冷え、ススキの穂が白くなっても鳴き喚く蝉の様に。
「俺を斬れる者は居るか!」
 楊儀にまず叫んだ。こいつは背後に並ばせた弓兵に射ろとすら命じないだろう。斬ってかかったりする真似だってしないだろう。案の定、誰かが動く気配も無かった。陣の奥から自分を見下ろしている文官達が不安げに動揺するのが見て取れた。小さなざわめきがそよ風のように聞こえた。誰かが邪魔者を始末してくれるのをただ待っているだけの奴らなんて、所詮こんな物だとたかが知れた。
「俺を斬れる者は居るか!」
 踵を返し、たった二騎の自分達を取り巻く人間の群に大刀を振り回しながら全方位を指し、将達を睨め付けながら叫んだ。どこから魏延の名を呼ぶ声が幾つも上がった。挑発なんかに乗らずにそのまま楊達を殺せばいいという声もした。そこで止めて下さいと嘆願する声が聞こえた。袂を分かったのは昨日の事なのに、随分と懐かしいなという気持ちが沸いた。
 もしもこれが予め決められた茶番でなかったのなら、誰が敢えて俺を殺すだろう。敢えて。皆で手勢に弓を持たせて、栗のイガの様になるまで自分を射ろと命じるのだろうか。何でもなかったかのように殿軍をさせられた後に、成都で宴会の最中に毒殺されるのだろうか。どういう風に殺してくれたのだろうか。
「俺を斬れる者は居るか!」
 馬岱の方は決して向かなかった。これで斬りやすくなるはずだ。
「私が!」
 背後からの裏返った馬岱の叫び声と共に、鋭い痛みと衝撃が右の脇腹に走った。何歩かつんのめったが、辛うじて立っていられた。わああ、という驚きと失望の叫びが谷中にこだまして耳に残った。多分帰順した将兵達の叫びだ。他の兵はただ驚くしかない様だった。
 口の中がぬるぬるする。袖口で拭うと、ねっとりした血が付いていた。多分今の自分は文官達から見て、信じられない事が起こって呆然としている様に見えるだろう。
 右脇にまだ馬岱の気配がある。何かを呟いている。――私が、ここにいる私が、貴方にずっと付いて回った私が、ごめんなさい、ごめんなさい――
 良い所を突いたじゃないかと最後に誉めたくて左手を伸ばして触れようとすると、彼女は恐れているように逃げていってしまって、わずかに指先が剣の柄に触れただけだった。それで良い、と思ったけれど、少し寂しかった。
「哀れだな、魏将軍。味方なんて誰一人として居なかったようだな!」
 楊儀の声がした。頭を上げる力が急に無くなっていくのを感じた。大刀を地面に突き立て、杖代わりにした。
「……知ってたよ」
「ふん。だとしたら、どこまでも愚直な奴としか言いようがないな」
 視界には、暗くなっていく地面と、そこにぱたぱたと降り注ぐ血が見えた。
「そうだ……」
 その通りだ。それは自分がよく知っている。
 愚直で頑固で、それが自分の、魏文長の売りだ。
 とうとう膝を突いた。誰かの足音が近付いてくる。小さめの、軍靴ではない足取りのものだ。息せき切って走ってきた誰かに、その勢いで蹴られた。大刀にすがれず、吹っ飛んだ。
「それ以上何かできるもんならやってみろ、狼、否虫けらめが!」
 のどの辺りに蹴りを入れながら、楊儀が叫んだ。息が出来ない。地面に転がり、咳き込んで血を吐く様を見て加虐心が湧いたのかまた蹴られた。
「成都からの糧秣の輸送計画あってのお前等だろうが。どうだ、蝉の様に独りで木の根を食いながら魏軍に立ち向かってみせたらどうなんだ」
 また蹴られた。痛みが鈍く体の芯に響き渡った。まあ楊儀の言わんとする所は解らないでもない。
 ぎゃあ、という悲鳴が聞こえたかと思うと、蹴りが止んだ。誰かが自分と楊儀の間に立ちはだかっている。立ち込める霧よりも静かな冷えた気配だった。
「楊長史。もうこれ以上この人をいたぶるのはおやめ下さい」
 馬岱の声だ。
「そこを退け。儂は――」
「おやめ下さい」
「兵卒風情が偉そうな口をきくな! こやつが今までどれだけ儂を辱めたか――」
「黙れ! もう死ぬだけなんですからこれ以上酷い目に遭わせないで下さい!」
 馬岱はとうとう吼えた。普段の、唯々諾々として素直に命令を聞く人間とはかけ離れた剣幕だった。周囲の驚きが判った。多分、見たこともない顔をして怒っているのだろう。
 馬鹿な事をすると思った。
 そんな事をしてももうどうにもならない。逆に馬岱の立場を危うくしかしない行為だ。でも、身振りは解らなかったけれども、声の張りと言い、響き方と言い、立派な将振りだと思った。惚れるじゃないか。
「馬岱」
 満足に声が出なかった。
「馬岱!」
 今度は叫んだ。それでも普通の声にならなかった。叫んだ所為で口の中に血が溢れて咳き込んでしまった。そうまでしてやっと、馬岱が振り返った。膝を突いて、顔を覗き込んだ。そこまでしなくても良いのにと思ったけれど、それを表現する余裕はなかった。
「……よくやった」
 そう言うと、馬岱は眉をしかめて唇を噛みしめた。変な顔だと思って自然と笑みがこぼれてしまったけれど、それは血反吐混じりの咳になった。
「ほめてやってるんだ……。もっと、うれしそうな顔をしろよ」
 返事はなかった。ただ、はなをすするような音が聞こえた。
「そのへんに、おれの剣があるだろう」
 馬岱が首を横に振った。
「それで、おれのくびを斬れ」
 誰の目にも、自分が助からないのは明らかなはずだし、それがわからない馬岱でもないはずだ。やってくれるはずだ。
「……めいれいだ、らくにしてくれ……」
 涙を精一杯こらえて、眉間に強くしわを寄せた顔で、やっと馬岱は頷いた。自分の大刀なら腕力のない人間でも、振り下ろせば一思いに斬れるはずだ。
 寒さと疲れが強くなり、急に眠気を感じた。目蓋が重くなってきて、自然と閉ざしてしまった。あれ、何だ、と動きを止めていく頭が思った。否、感じた。この眠気は。微睡みは。死ぬなんて、ちょっと痛いだけで眠いのと何ら変わらないじゃないか。これまで必死に、がむしゃらに生きてきたのが馬鹿馬鹿しく感じられる程だ。
 断崖絶壁から足を滑らせて、轟々たる濁流の中に落ちたのだ。流れに乗りきれずに溺れていく。秋の雨らしく水は冷たかった。流れてくる藁は無いだろう。これが、死か。
 そして、死んだ奴がもう二度と目を覚ましてくれないのは知っている。馬岱が泣き叫ぶ予感がする。自分が劉備を亡くして悲嘆に暮れたように。
 最後に彼女に何と言おう。でも顎も唇も、体のどこも動かせなかった。いや、それに、昨日までに言いたい事は全部言てやった。悔いはない。
 さようならだ。


終幕


 あけましておめでとうございます。
 昨年の秋までに掛けての、五丈原における北伐は総司令官の死とちょっとした混乱という尻切れ蜻蛉な結果で終わってしまいましたが、これからも魏国が、益州を蜀を漢中周辺を、得たいと思うなら我々は抗戦致します。並大抵の事では屈しません。
 今年も宜しくお願いします。


 明くる年の蜀の正月は小さな戦で始まった。魏の縁にちょっとした喧嘩を売って、千人ばかりを失って帰ってくるだけの短期間かつ小規模な戦だった。
 その一軍は馬岱に任せられた。当初は最大でも三百人程の損失だと見込んでいた戦死者の数があまりにも多かった。何故だと問い糾されても、彼女は解らないとしか答えなかった。帰って来た兵達に訊いても同じだった。皆、解らないと言った。
「私は、魏将軍ではありませんから」
 何故だ何故だと問い詰めてやっと、馬岱が解らない以外の事を言った。その場に居合わせた者には、馬岱の精一杯の皮肉に聞こえた。
「我々は亡き丞相の意志を引き継ぎ、魏国を滅ぼし、先帝陛下の目指した蜀漢の天下の復興を成さねばならないが、今は我慢、雌伏、臥薪嘗胆の時だ。それに、時間は掛かるかも知れないが長江を利用して孫呉と共に魏を倒す計画の一つでも錬ってみようではないか」
 いつしか、それが士大夫や将達の合い言葉になっていった。
「馬将軍、それは外した方が良いかもしれません」
 何人もの将軍と士大夫がそう言った。王平が、費?が、張巍が、姜維が、蒋?が、羅憲が。
 文官達が、ただ持て余すからと言う理由だけで葬った魏延の事をいつまでも考えてしまう。捨ててしまった方が良い、と遠回しに言った。
 襟を白い狐の毛皮で贅沢に飾り、鮮やかな緑の表地と深い赤の裏地の、魏延の一部でもあったかのようなマントは今は、余っていた裾を仕立て直して、馬岱が羽織っていた。
「これは願掛けです」
 馬岱はその度に、譲らないという様に強く硬い口調で言った。
「私が強くあり、この国を支える一将軍として、彼に及ばずとも優れていると皆様に評価して頂ける私になる為の、ただのおまじないです。そして私は、私に出来得る限りの事をします」
 そして逆に、訊く者に逆に訊き返した。
「でも、誰の皮肉ですか。魏将軍の隊や位階を私がそのままそっくり引き継ぐなんて。私はあの人にはなれないのに」
 私はあの人になれない、と口癖の様に言う時の皮肉の染みた唇の歪ませ方があの赤毛の将に似ていると、誰かがいつの間にか言い出した。



後書き
とりあえず、目標としていた「魏延が死なない終わり方」「魏延が中途半端な立場になる終わり方」「魏延が死ぬ終わり方」を、独尊にょ岱で書き上げる事が出来ました。
「どれが「フォーメーション~」の正当な続きなんだ」と思われる方も居そうですが、まあ、パラレルワールドみたいな物だとでもお思い下さい。不器用な魏延ともじもじしたにょ岱のお話は、ひとまずここで終わりです。
またこの二人のスピンアウト(?)が書けるかどうかは解りませんが、その時はよろしくお願いします。
尚、先日の交地で発行した冊子版「何も言わないで」に収録している物と内容は同じです。

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