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その赤の名は 黄忠編「珊瑚玉」

注意書き

SR魏延が結構粗暴な性格の女の子な小説の連作集です。
今回は「魏延が黄忠に親子レベルに世話になっていたら」というifの基、書いてみました。
初出は2011/10/30発行の冊子版「その赤の名は」です。


以上の事を踏まえて、ご了承いただける方のみ「つづきはこちら」からどうぞ。
フォントサイズが大きくなります。

 住んで三十年になる屋敷を離れる際に、もぬけの殻となって久しい妻の部屋に立ち入った。寝台も机も鏡台も、とうの昔に処分してしまい、土埃がうっすらと積もった四角い空間があるだけだったが、今でもありありと家具の配置を思い出せた。
 大体自分が部屋を覗きに来ると、妻は明るい窓辺に腰掛けて刺繍や縫い物など、針仕事をやっていた。自分達には遅くに出来た子供がいたが、それもとうの昔に戦で亡くしてしまった。こんな時代だからそれも仕方ないと言いながら、それでも妻はその日から目に見えて老け込んだ。
 その妻が、病床から最後に買い求めた物がある。淡い桃色をした珊瑚の玉が無いかと、最後の最後に言い出したのだ。何なら、どんな形でも良い、淡い桃色なら玉でなくても何でも良いからとまで言った。
 自分の命がもう長くないと悟ってなのか、熱病の者が冷たい水を求めるように、寝込んで動けなくなってからは人を使ってまで探していた。
 私が欲しいのじゃないの。あの子の為に必要なの。
 そう言った妻は、自分の手の中に望んだ通りの宝物が届いて心底ほっとしたようで、それから程なくして死んでしまった。
 妻が珊瑚を渡したかった当人は、その時山賊討伐で屋敷には居なかった。親族と知り合いだけの小さな葬式もしたが、それにも間に合わなかった。
 討伐から帰ってきたそいつに妻が死に、葬式は簡単に済ませた事を告げると、返事は渋い顔だけだった。人が死んで、どうしてそんな顔になるのか。よく分からない奴だと思った。
 取り敢えず連れて行ってやった墓の前で手を合わせるそいつが、早く帰るって言ったのにと呟いた。納得がいかないといった様子の口調だった。老いた耳には聞き取りにくかったが、確かにそう言った。
「ジジイ」
「おう、何だハナ垂れ」
 そいつとは互いにそう呼び合う仲だった。そいつは、妻に先立たれてこれからどうするのかと訊いてきた。
「どうするもこうするも、寂しくなっちまったが、儂とお前で普通に暮らしていくしか無いわい」
「何でまた、ジジイともあろうもんが寂しいなんて弱音吐くかな。そんなの、嘘だろう? それと、俺が訊きたいのはもっと別な事だよ。奥様が死んで、飯とか掃除とか色んな事をやる奴が今は居ないじゃないか」
 自妻の事をそういう、端女や下僕のように見ていたのかと思うと腹立だしくなり、思わずそいつをぶん殴った。そいつは、そういう意味で言ったんじゃないと、切れた唇から流れる血を拭いながら言った。赤い頭と相まって、顔中がしつこく真っ赤に染まっていた。
「俺達じゃそういう事が出来ないし、どうしたらいいのか解んねぇから言っただけなんだよ」
「ふん。客の対応から飯炊きから山菜の取り方まで、武術学問と同じく教えてくれるわい、ハナっ垂れ」
「でもジジイ、何でそんなら寂しくなるんだ。一人人間が家から減っちまっただけで、これから俺達が忙しくなるのが正しいんじゃないか」
 その言葉に思わずぎょっとして、そいつの顔を見た。「肉親が死ぬ事は大抵寂しい事である」という普遍的な事が、こいつには全く理解できない様なのだ。床から起き上がれなくなり、腕が細くなっていき、最期に「もっと貴方と居たかった」と言って涙した妻の様子を見ていないからそう言うのか。それとも、もっと別な所に原因があるのか。
 その普通な事を説明できなかった。どう説明したらいいのか解らなかった。そいつは家族らしい者達をとうの昔に切って捨てていたからだ。ただ一人で、野犬のようにさすらっている所に出くわして拾って、妻と一緒に我が子の様に教育し、暮らして来たのだ。
 人が死んで寂しくなるとはこういう事だと説明できなかった自分を恥じた。あれこれと生前の妻に対する思いが湧き出て止まらなくなる物だと思っていたのに、ただ「寂しい」という大昔から用意されていた言葉で自分の気持ちが整理されてしまった事が、情けなくも悲しくなったのだ。
 だから、妻の部屋の管理をそいつに任せてみた。
 初めの内は面白半分に家財を探って妻の生きた痕跡を見付けて、これと自分と奥様――そいつには妻の事をそう呼ばせていた。妻は自分の子供同然に接したいからとその言い方を嫌っていたが――にはこういう話があると面白おかしく語っていたが、次第に、鏡台や針仕事の道具を使ってみようにも、それらのまともな扱い方を知っている人間が消えて、その人物は永遠に帰って来ないのだという事をじっくりと知ったらしく、ある時ようやく呟いた。
「奥様はもうどこにも居ないんだな、ジジイ。だから、寂しいんだな」
 うん、と頷いてやった。
「あれが、最後の最後まで生きてちゃんとお前に手渡したいと言っていた物だ。形見だと思って大事にしろよ、ハナっ垂れ」
 寂しさを理解したならこれをやる意味があるだろうと思い、妻が取り寄せた淡い珊瑚玉を収めた箱をくれてやった。そいつは箱の中に敷き詰められた綿に守られる様に収まった珊瑚を摘み出して、まじまじと見た。薄い、濃さがまちまちの桃色が全体を占め、その中で三割程が白く、赤い部分は殆ど見当たらなかった。ただ一つ、今血が滴った様に赤い部分があるだけだった。
「……綺麗だけど、何でこんなのをくれる気になったのか、よく解んないな。なあジジイ、寂しいのは嫌だし、俺達は奥様の遺品の大体の使い方が解んないからさ、俺、奥様の部屋の物は片付けようかって思ってるけど、ジジイはそれで良いかな」
 死人の事を元から居なかった人間の様に扱おうとしている。そう思っただけで腹が立って、もう一発殴ってやった。
 けれども次第に、そいつの言う事の方が正しいかもしれないと思い始めた。律儀に虫干しをするのは結構な大仕事だったし、使われない鏡は曇りを増し、誰も居ない部屋の隅には砂埃と枯葉が積もり始めた。女物の着物は誰も着ないからとまず、思い出深い物だけを幾つか残して処分した。鏡台も知人にくれてやった。針仕事の小さな箱だけは、そいつも自分も手前の衣類の修繕位出来たから必要だった。
 そういう経緯を経て、妻が居た部屋は数年掛けて何もなくなってしまった。
「やっぱり、寂しいな」
 部屋がただの四角い空間になってしまい、そこを掃除したハナっ垂れが、自分の言った事は間違っていたのかも知れないとでも言う様に、後悔が少し混じった声で呟いた。


 そんな夢を見た。
 いつになく現実感があり、今こうして横たわっている自分の方が夢ではないかと疑ってしまう程に、何もかもが、あの赤毛のハナっ垂れを殴った痛みや、しぼんだ妻の手を握った骨の硬さが先程触ったかのように生々しくあった。
 夷陵の戦で受けた矢傷は最初の内はすぐに治ると高を括っていたが、ふやけるようにぐずぐずと、いつまでもふさがる気配が無かった。そして、床擦れを起こして更に悪化した。
 横たわる姿勢を変えてみたり、布団を換えてみても良くならなかった。傷はいつまでもへばりついていた。そうしている間に体中が動かなくなっていった。
 赤毛のあいつに言わせれば、ごろごろと転がっている方が悪いのだそうだ。なるほど、一理あるだろう。最初は伝え歩き位出来ていたが、今は自分で便所に行く事さえ、恥ずかしながら、他人の介添えがなければ出来ないし、箸を握る力も器用さも失せた。だから、毎食粥を啜る時は匙を持っている。餓鬼みたいだと我ながら思った物だった。
 ここまで無様に生きた情け無さからも涙は起こらなかった。もっとも、妻が死んでも、戦で実子の黄叙を亡くしても泣かなかった。もしかしたら涙はもっと昔に、餓鬼の頃に先払いしたのではないかと思う程だ。
 動きたいと思っても侭ならないから、仕方ないと思って自ら動かなくなっていくのか。
 動けないから、動く気力も失せるのか。
 どちらだろうか。
 殆ど一日を寝転がって過ごし、冬の一番寒い時期を乗り切って、ようやく木蓮を拝めた日にそう思った。気をつけていたのに風邪をひいてしまい、酷く体がだるかった。それでも生きていた。
 若い頃は死を意識した事が無かった。たった、十二ヶ月前の同じ時期まで死が飛び交う戦場を走り抜けたが、その時も何も感じなかった。
 何もしない時間を持ち、ぼんやり過ごすばかりになったから余計な事を考えるのだろうと、黄忠は思う。
 庭には梅の木が香りを振りまきながら、紅に白に桃に、小さな花を細い枝に精一杯付けて天に向かって伸びていた。亡き妻が赤毛に贈った珊瑚玉の様な色合いの庭だった。この梅の後には桃が咲くだろう。多分花は拝めるだろう。
 それが葉を茂らせ、色づいた頬のような実を結ぶまでは無理だろう。
 今はひたすらに、生きていたい。生きて、月に二、三度は必ず冷やかしに来るあの赤毛の奴と、来月も再来月も、その先ももっとずっと会って話したいと欲している。
 あいつは――もう、あいつやハナ垂れ等と軽々しく呼んで馬鹿にするのは止した方が良いのかも知れない――魏延は、柄にもなく「蜀漢を守る山々等の天然の要塞だけではなく、人間の要塞も作るべきだ」と言ってしきりに黄忠の家に頻繁に足を運び、士卒育成についてこんな事がしたい、あんな事もしたい、どれを優先するのが一番良いだろうかと知恵を仰ぎに来ていたのだ。
 けれどもいつからか来なくなった。冬の一番寒い時期だったから、出歩くのを控えたいと思ったのだろうと勝手に考えている。代わりに、下手くそな字が沢山並んだ手紙が届く様になった。そこには彼女の近況があれこれと記されていて、巷の噂で伝え聞く「魏将軍」の実態と苦悩が拙い文で綴られていた。そして、手紙は必ず「返事なんかくれなくて良いからな、聞いて貰うだけだからな」と念を押す言葉が添えられていた。からかい半分に筆を取ってやろうかと思ったけれど、返事を書こうと思案している内に次の手紙が来て、返事をくれるな、と念を押されてしまうのだ。
――頭の悪い奴や要領の悪い奴に物を教えるのは本当に骨が折れる。何度説明しても解って貰えない腹立だしさに、兵卒を殴ったり打ったりしてしまいそうになった事もある。ジジイは多分、今の俺以上に腹が立つ事ばかりだっただろうに、そんな素振りはしなかった。感謝しているけれど、何で必要以上に殴ったりしなかったのか、今思えば不思議だ。俺はあんたの子なんかじゃなくて、拾ってきたただの餓鬼に過ぎないだろうに。
――兵卒共の中には俺が女だって解った途端に下品な事をあれこれ言い出す奴も居て、そっちを我慢する方が難しい。我慢出来なくてぶちのめして、自分でそいつを半殺しにしてしまうからだ。我に返って、それか隊長格に止められて殴ったりするのを止めるけど、大体そう言う時の兵卒共が俺を見る目は、何か違う。練兵場で訓練をしていると平服の陛下が突然来て、昔のようにからかって下さる時がある。大抵陛下が帰った後、兵卒共が俺の事を実は凄い奴だったんだって勝手に思うみたいで、突然物言いが変わる時があって気持ち悪い。それと、最近は諸葛殿から施策についてあれこれと教えて貰ったりしている。
 寝台の横の机に日付順に山と積んだ手紙を読み返す度に、頬が緩んでいる自分に気が付く。そこはかとなく愛しく感じる手紙を読み返し、飯を食い、そして一日が過ぎていく。それを体力が尽きて死ぬまで繰り返すのだ。
 そう言う春先を過ごしていた、晴れたある日の事だった。梅は盛りを過ぎ、匂いと遅くについた蕾だけを残して、代わりに桃が咲こうとしていた。桃色の割合が少し多くなるだけで、庭の眺めはあまり変わらなくなりそうだと、そんな風に思っていた。
 残った梅とちらほらと咲き始めた桃を眺めて、自分はいつ死ぬのだろうかと思っていたら下女が来客を告げた。
「後将軍様、お客様です」
 巷では後将軍よりも、既に死んだ関羽と張飛に、古株の趙雲と新参者の自分と馬超をひっくるめて「五虎大将軍」と呼んでいるらしい。どこの誰が付けたか知らないが、粋な呼び方を考えてくれる才能のある奴が居る物だと感心した。
「誰かな」
「魏漢中太守です」
 今更来るかと言えばいいのか、やっと来てくれたと感じたらいいのかと思っていると、部屋に魏延が通された。見舞いの品が入っているらしい包みと瑞々しい水仙の花を持ってずかずかと入り込み、寝台に横たわる黄忠を睨み付けるように見下ろした。
 どこの誰に売られた喧嘩なのか、魏延の顔にはでかい痣が出来ていた。昔から安くてしょうもない喧嘩をその場の勢いで買ってしまい、後日兄貴分を連れて来られたり、寄って集って殴られたりという高い利子を払わされる結果になる事がよくあった魏延だから、単なる痣や擦り傷では一々驚けない。
「大分縮んだな、後将軍様」
 魏延は挨拶もそこそこに、自分が出した手紙の山を読み返していた黄忠を見てそう言った。
「酒、飲めるか? 後これ、ジジイの庭には無かっただろうって思って貰って来た」
 黄忠は付いて来た下女に水仙の束を渡す様に魏延に言うと、彼女は束を投げ寄越した。下女はそれを受け取って、小走りで部屋から出て行った。魏延は、下女が運んできた椅子には腰掛けなかった。
「座ったらどうかの」
「嫌だ、老け込んじまう」
 魏延はそう言ったまま、そっぽを向いた。黄忠から見ればその動作は、右の頬骨から額に掛けて出来た痣やら擦り傷の跡を隠したがっている様に見えた。
「のう、文長」
「なんだ、漢升のジジイ」
「その喧嘩は幾らぐらいかな」
「別に大した相手じゃねぇよ。一回払いで済みそうだ」
「ふん、今までちぃーっとも来なかった癖に、いきなり顔を出しおったのは何でじゃ」
 チッと、明らかな舌打ちをして渋い顔になった魏延が、むかつく、糞野郎、と誰かの事を罵りながら話し始めた。
「馬岱って居るだろ? 馬超の子分の」
 あの錦の若い奴の身内だなと、黄忠は頷いた。
「そいつが行け行けって、物凄くうるさいからジジイが本当にやばいんじゃないかって思って、それで様子見に来ただけだよ」
「何だ。そんなちっぽけな奴の言う事を真にうけおって……」
 喉の奥が引っかかっているような声で喋った。青臭い奴め、と笑ったつもりだったのに、喉が引き攣った咳の様な声になってしまって、魏延が、誰か居ないか、と大声で人を呼び慌てた様子で部屋を出て行こうとしていた。
 ひとしきり笑いが止んで咳払いを一つすると、魏延も、彼女に呼ばれて飛んできた下女も、発作ではないと解ってようやく安心した様だった。
「勘弁してくれよ。……そんな冗談だか本気だか解らないのは止してくれよ」
「今のは、本気の笑いじゃ。お前が勝手に発作だと勘違いしたのが悪いんだわい、この馬鹿垂れ。久々に会うてみたら、やっぱり青臭いわい。……ハナっ垂れ!」
「ジジイに比べたらどいつもこいつも青いだろうよ。クソジジイ」
 肺病みのような咳が実はただの笑い声だったと知って腹が立ったのか、魏延は椅子を蹴たぐって座り、黄忠とは違う方向の庭を眺め始めた。一々色々な事に腹を立ててばかりの面白い奴だと黄忠は思う。見ていて飽きないし、可愛い気がある。
 風に乗って、梅の花が香った。椅子の背もたれに頬杖を付きながらだらしなく座る魏延の事を今更怒ろうという気は無かった。俺は様子を見に来ただけだ、と魏延は不機嫌そうに呟いた。
「……韓のおっさん斬ったのは間違ってなかったって、俺は今でも思うし、そう信じてるよ。ジジイとこうして話せるのもあいつ斬って投降したからだもん」
「韓太守と言え」
「引退も良いが今ここで引導渡してくれるわーなんて、下手な事言うんだもん。ジジイに死んで欲しくなかったし、あんなの誰が見ても八百長なんかじゃないし、ジジイに死なれたら俺が一番困るんだし」
「じゃけどな、あの後、お前に対して諸葛殿が何と言ったか忘れおったか」
「あんなの、どう見ても出任せじゃん。周りがちゃんと納得する様な理由になってないし、そんな事一々信じる馬鹿なんて居ないって」
「一部始終を見ていた人間は、そうは思わんだろうよ。だけどの、初対面で難癖付けられて首を落としかけたなんて話は、周りの良からぬ、勝手なたわ言ばかりを呼ぶぞ」
「そんなのも良いんじゃないの? 勝手に言わせておいてやれよ」
「文長」
「何だよクソジジイ、改まっちゃって」
「独りというのは寂しい物だぞ」
「大丈夫だって。人間誰だって、突き詰めていけば一人になってしまうんだし」
「違う。儂の言いたい事とお前の頭の中はまるで噛み合っておらん。格好付けて孤独な様や一匹狼振って見せても、それはただの虚勢にも何にもならん。結婚しろとかまでは無理は言わんが、本当にお前自身を信じてくれる人間を捜せ。そして、そいつの手を離すな。絶対にだ」
「ジジイの場合は、それが奥様だったわけ?」
「どうだかの。今となっては解らんわ……」
 深い溜息を吐いて、黄忠は庭を眺めた。ついこの間まで金木犀の香りが漂っていたが、それを魏延と一緒に楽しむ事は出来なかった。長沙に居た頃、魏延は同じ木犀なら銀木犀の方が好きだと言って張り合うように苗木を植えた物の、世話の甲斐も虚しく枯らした事があった。あの頃は妻も生きていた。一度だけ魏延の銀木犀は花を咲かせたが、それっきりで、妻も一緒になって残念がった。
「……もう居るよ。俺は一人じゃない」
「ふーん。誰じゃ」
「馬伯瞻」
 誰だ、と思ってすぐに、魏延に喧嘩を売った奴だと思い当たった。
「今日、お主と喧嘩した相手がそれだというのか?」
「変?」
「いや、ちっとも可笑しくはない」
「あの水仙って花も、あいつが育ててるのを貰った。何か、薬草になりそうな奴は全部育ててるみたいだ」
「そいつの家に寄ったのか」
「何度か」
 馬岱との付き合いがある様だという事は知っていたが、ここまで親しいとは知らなかった。手紙にも書いていなかったから知り様が無かった。
「……文長よ」
「何?」
 二人して同じ庭を、視線を合わせないまま眺めていた。雪が残った隙間から黄色い福寿草が覗いている。最近は晴れが続いたからか、雪もあちこちで解けて黒い地面が見え始めている。
「あの珊瑚の玉、どうした?」
「簪とか、紐を通すとかしたら綺麗かも知れないて思ってるけど、どうにも俺には似合わない気がして、貰ったまんま、加工も何もしていないよ。白と桃色が多くて綺麗だとは思うけどさ」
「……勿体ない。出来ればあれで飾り立てたお主を見てみたかったもんだ」
「珊瑚って手入れが大変らしいから、戦装束には使えないんだよ。それに、大分時間掛けて探したんだろう? なくしたら嫌だし、使えないよ。それに俺の頭赤いから、合わせようがない」
「黒は何にでも合うぞ。汚れも目立たんし、引き締まる」
「黒か……。考えておくよ。でも、あの珊瑚は使わない。あれは戦地に連れて行くもんじゃないと思う」
 何もせずにいた日々が長かった所為か、こうして話しているだけでもかなり疲れる。けれども、ここで、話すのに疲れ切って死んでしまうのが、もしかしたら一番幸せかも知れない。
「何だかんだで、結局俺ジジイから一本も取れなかったなぁ。今ここでやるのは卑怯だって物だし……」
「いや、何本も取られたわい。ただの飢えた野良犬だと思って拾った餓鬼が、まさかここまで立派に出世するとは思わんわ。十五年前の儂に言っても信じないかも知れんがな」
 魏延がそりゃそうだ、と笑った。自分でも出世出来るとは思っていなかった様だ。
 ひとしきり笑った。沢山話した。そして、死ぬ前に一目会いたいと願っていた人間に会って話して、互いに言いたい様に言い合った。
 赤毛のハナ垂れは、もうただの餓鬼でも野良犬でもない。妻が渡した珊瑚の玉に似て、庭に咲く梅の花に似て、そういう人間になったと思う。玉の様に傷付きもして、しかしそれを糧に寒空の下で色とりどりの花を咲かせてみせる。自分が咲いたからにはもう春なんだと言わんばかりに天に向かって枝を伸ばし、香りを振りまいてその存在を強く叫ぶ様に。
 疲れたな、と思った。疲れたけれども、最後に一言言わなければいけない気がして、何と言おうと思った。答えはすぐに出てきた。魏延を焚き付けたあいつに、直接言えないのが残念だが感謝したいと思った。もっと魏延に直接言いたい事があるかも知れないが、死んでいく自分なんかより、若い馬岱の方が魏延の事をずっと見守ってくれる筈だ。
「文長」
 眠い。疲れたからなのか、それとももっと別な理由があるからか――
「馬伯瞻君に、宜しくと伝えてくれ」
 何でだよ、あいつ呼んで直接言えよ、クソジジイと魏延がふざける声が遠ざかっていく。


 ジジイが死んだ。大体の人間に解り易い様に言うなら、黄忠が死んだ。
 それを真っ先に伝えたのは、見舞いに行った魏延だった。最初は眠っただけだと思っていたのに、どれだけ大声で呼んでも起きず、脈が無いのは自分のやり方が下手糞なのか間違いだと信じられなくて、医師を呼んでやっと黄忠が死んでいると判った。
 見舞いから帰って来た魏延はありとあらゆる部屋を覗いて、最後に書庫で馬岱を見付けた。ここは狭いと思って、資料を探す馬岱の事なんかお構いなしに、かび臭い部屋から引きずり出した。馬岱は観念した様に大人しくついて来た。その様子を見て、こいつは自分がこういう事をされるのも計算の内で黄忠に会いに行けと煽ったのかと思うと腹が立った。腑が煮えくりかえるとは、まさに今のような状態の事を言うのだろう。
 襟を掴んで壁に馬岱を押しつけても、彼は動かなかった。
「お前、俺をこんな気分にさせたくてジジイに会いに行け会いに行けって煽ったのかよ!」
「そうだと言えば――」
 馬岱の体が吹っ飛んだ。
 そうだ、と言った。肯定した。吹っ飛んだ馬岱に大股で近付き、再度捕まえて吊し上げ、ここからどうしてやろうか、と思った。
 魏延を止めろと誰かが言っている。うるさい、黙れ、これは俺とこいつの問題だ、と一際大きな声で、腹の底から怒鳴ってやった。戦地で出す声で、そんな声音を聞いた事の無い者達はたちまち竦み上がってしまった。誰に対してどう怒ればいいのか益々解らなくなっていく。頭の中が建物の燃える様に激しく爆ぜている様に、様々な思考が駆け巡っているのが感じられるが、どれを取り上げて馬岱に言ってやるか、どうかするかしてやればいいのか解らない。
 その内馬岱が小さく笑っているのに気付いた。笑うなと叫んで馬岱の腹に拳を叩き込んだ。
「……良かった」
「何がだ!」
 魏延に吊し上げられたまま、馬岱は殴られて腫れ上がっても尚涼しげな表情を作って笑って見せた。
「あんたが芯から優しい人間だと知れたからだ。それが判れば、手足や肋の二三本、どうという事はない」
 体重と速度を載せた拳を振り上げて、男の顔面に叩き付けた。手が痛かった。鮮血がぴたぴたと降りかかった。鼻っ柱をへし折ったか、唇を潰し切ったか、歯を折ってやったか、そんなのを見てやる必要はなかった。頭の中が煮えたぎってそれどころではなかった。自分を不愉快な気分にさせる男がひたすらに好かなかった。
 ジジイの言った、「手を離すな」という人間をひたすらに殴った。殴って殴って、もう、殺しても構わないとすら思った。これだけ殴られても俺を優しいと言うのか、答えて見せろ、と言った様に思う。
――後将軍が亡くなったのを目の当たりにして動揺して悲しみ、会って話をしろと強要した私に対してそんなにも怒るあんたは、やはり優しい人だと思う。
 付き合いきれなくなって馬岱の脇腹を蹴り上げてその場を後にした。いや、逃げた。馬岱の顔なんかもう見たくなかった。
 ジジイが死んだ。
 西から来た男にはいい様に殴られて尚、君は優しいとか、底知れないほど気持ち悪い事を言われた。
 春を告げる黄色い砂が空を覆っていて、強い風と一緒に散った梅の花びらと枯葉に混じって地面でくるくると渦巻いていた。天気は全く良いのに、気分だけは最悪だった。


 最後に、魏延が黄忠の家に顔を出した切っ掛けになった顛末について記す。
 魏延がいつもの様に黄忠宛の手紙を書いていた所に、馬岱が顔を出したのが切っ掛けだった。
 何回もの下書きを経て、机の上に広げて何がしたい、何に困っていると、それなりに気をつけて綺麗に書いたつもりの手紙を、馬岱が一瞥するなり奪って、破り捨てた。もうちょっとで書き上がり署名が出来る段階まで来ていたのに何をするんだ、と言うと、馬岱は、こんな物を書いている時じゃない、君は行くべきだと、いつになく真剣で、強要する様な口調で言い始めた。
「行け。行って顔を拝め。そして出来るだけ沢山話をしろ」
「あんた、俺にそんな口利ける立場かよ!」
「立場とか、そんなのが今は重要なんじゃない。ただの年長者として老婆心申し上げてやっているだけだ」
 馬岱の方が年上だったという事実よりも、直に行って黄忠の顔を拝まなければならない事の方が、魏延の胸に重くのし掛かった。半年前までは月に何度も見舞いに行った。その度に以前よりもやつれていく黄忠を見るのが嫌になり、「返事はしなくて良いから」で締めくくられる手紙を書くようになった。その経緯を知らずにあれこれ言われるのは心外だ。
「……行くのが嫌なんだよ」
「でも、行かなくて最後に後悔するのは他でもないあんただ」
 なおもしつこく投げつけられる言葉に、魏延の頭の中が激しく湧いた。
「俺はジジイが萎んで死んでいくとこなんて見たくないんだよ!」
「誰だってそうに決まってる。愛しい人間が惨めな姿でいる所を見たくはないし、相手だって見せたくないと思ってる」
 手紙の代わりだという様に、花束が机に置かれた。白い六枚の花弁の真ん中に筒の形をした黄色い花弁が付いている。咲いているのは二三輪だけで、後は全部蕾だ。これから咲いていくのを見て楽しめと言う様な束だった。
「手紙の代わりにあんた自身とそれを持って行った方が、良いんじゃないか」
 そこから先は喧嘩だった。馬岱は魏延の眼窩の辺りに拳をくれて、魏延は馬岱の腹を思い切り蹴り飛ばすまで掴み合って、行けば良いんだろう、と魏延が怒って部屋を飛び出していった。
 行く先はもう決めていた。私邸に置いてある、冬の間に何度も見舞いの品に手持ちで持って行こうと思っては諦めた酒瓶を取りに戻ってから、魏延は黄忠の家を目指した。



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