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何も言わないで・中編

注意書き

・SR魏延×UC馬岱(女体化)です
・五万字近くあります

・投稿字数制限の都合で三章立てになりました。こちらは中編です。

以上の事を踏まえて、ご了承いただける方のみ「つづきはこちら」からどうぞ。
フォントサイズが大きくなります。

② 大樹の蔭


 戦は互いに牽制し合う様に動きになり、派手なぶつかり合いも伏兵をいくつも用意した陣も必要のない、ただのにらみ合いが続いていた。最前線の魏延は時々魏兵を殺し夜襲をして、魏兵に逆に同じ事をされる様になっていた。一方で水面下では間者を送り合い陣の様子をまさぐり合う、芋虫やなめくじの動きのように、入り組み粘り気のある戦に変化していった。魏延は、とりあえず足と口らしい物があって観察していたら蛹になって羽化する芋虫と毛虫は別として、なめくじと蛭が嫌いだった。常にぬめっていて、山道を歩けばいつの間にか貼り付いて衣の上から血を吸う気持ち悪い生き物が嫌だった。
 だから、現在の動きのない戦況はそれらを思い起こしてうんざりする気分になるのだ。間者が蛭になっていつの間にか部隊の血である兵卒に毒に似た情報を垂れ流し、脱走者を増やそうとしているような、泥のような戦は性に合わないし嫌いだった。派手に、血飛沫が雨の様に降る戦がしたい。
 馬岱が魏延の配下の兵卒扱いとなって一月程経ち、いきなり稽古をつけてくれと言い出して五日程経った頃で、戦況については、そろそろやって来る冬の気候を利用出来る戦はないかと思い始めた頃だった。冬の戦も消耗戦や膠着状態と同じで、嫌いだった。他の季節に比べて凍傷の危険や、暖を取る為の余分の燃料の調達や食糧の確保等と、やらなければならない事が増えるからだ。
 本陣とは定時の伝令をする位で、早馬を走らせる事も逆にそれが来る事も無い。何の動きもない幕舎でじっとしていられる状況でもなく、陣内を歩いて兵卒達の様子を見て回るが、何もおかしい所は無い。あまりにも何もないので、最後に馬岱に体調が良いなら稽古に付き合ってやると言って、馬岱が嘔吐くまで組み手を続けた、何でもない昼過ぎの事だった。
 その時自分は机の上に広げた地図をまんじりと睨んでいたと思う。稽古の後しばらく寝台で休んでいた馬岱が起き上がって、魏延に突然変な質問を始めた。
「文長殿、私をどうお思いですか」
 どう、といきなり言われても。
 思案に暮れた。色街で芸妓が似たような事を言うが、あれとは違う答えを聞きたいのだろう。馬岱が寝台から這い出て来て、答えをねだる様に魏延の脇に跪いた。
「結構使える奴だと思ってる。良い部下だ。戦況を見る目が他の奴とちょっと違っていて、それが面白いから、もっと早くから知り合っておきたかったよ」
 同じ幕舎で寝起きして、頼んだ事はそつなくこなしてくれる、良い部下だ。あくまで良い部下であると認識していると、魏延は答えた。誉められたのが嬉しかったのか、馬岱がはにかむように笑った。地面に直に座っている馬岱に椅子を出して広げてやると、素直に従った。目線の高さが自然と近くなる。
「どれ位、お役に立てておりますか」
 かなり、と答えながら魏延は幕舎の中を見回した。馬岱を兵卒として部下にして連れ込んだ時は自分なりに片付けていた空間は、今は、使う目的に応じて簡素に解りやすく纏められ、思い切って捨てた物もあった為かこざっぱりとしていた。動けないと言いながらも、少しずつ馬岱が片付けてくれた結果だ。
「うん、かなり」
 確認する様に、もう一度言った。馬岱が鞭打たれ怪我をしながら、体の自由もあまり利かない内から自分なりの仕事を探してやってくれたお陰だ。
「後、何だか知らんが貴様とただいま、お帰りとか、そう言うやり取りをすると普段よりよく休めている気がする」
「私は文長殿にちゃんと毎日挨拶しておりますが?」
「……俺の思い違いだったかな」
 馬岱が挨拶をするのはいつもの事だと知っていたが、「ただいま」「お帰り」に関しては、彼女は一晩以上かかる作戦から帰ってきた時にしか言った事がないと思う。そして大体、そのやり取りをした後の馬岱は心底ほっとしたような顔をするのだ。彼女自身は気が付いていないのかも知れない。
 休む事について、寝入ってしまうと馬岱に気付かないという事は、伏せておいた。何の拍子で、誰に知られてしまうか解らない自分の弱点だからだ。不思議と、馬岱の気配では目が覚めないのだ。なぜだろうかと考えても、彼女が人間として小さい部類に入るからだとしか考えられなかった。
「文長殿、最後の質問ですが……、申し上げても良いでしょうか」
 かしこまって言わなくても良いのに、と思いながら頷いた。
 魏延が頷いた途端、馬岱は恐ろしい事を告げなければいけないと決め込んだ様な顔をして、息を吸い込んだ。何を問われるのだろうと身構えていると、やがて決心がついたかの様に馬岱は口を開いた。
「文長殿は私を貴方と同性の人間だと見ておいでですか、私に調練や雑務と言った事しか手伝わせないのは私が異性だからですか、それとも何か別な理由があるのですか」
 馬岱がいきなり堅苦しく不器用で、早口な物言いになって畳み掛けてきた。彼女らしくない物言いだ。
「……貴様は怪我が充分治ってないだろうが。武功をあげるのは今の貴様の仕事じゃない」
 即答したが、それは表面上の理由だ。今まで自分が無視を決め込んでいた事に言及したのは意外だったが、彼女の気持ちが大きく変わってしまう事が起こったから、動揺しているだけなのかも知れないと思った。唯一の同性の、幼なじみも同然の側近を亡くしてしまい、本当に魏延を信用して良いのかと迷い続けているのかも知れない。
 そして、魏延の答えは嘘に過ぎないとすぐに判ってしまう。自分と馬岱の間には、親の腹に宿った時から決められていた大きな違いがある。その違いを簡単に無視出来る程、魏延は感情のない人間に徹し切れない。ただ今は、彼女の白い背中が破れて真っ赤になるまで容赦なく鞭打たれ、苦しみのたうち回った様を見てしまったから、あまりにも哀れ過ぎるという気持ちが、本来なら馬岱に抱ける感情を踏み潰している。そして、それを見抜けない程馬岱は鈍感ではあるまい。
「それに、俺が今稽古をつけてやっているだろう。武功だの何だの言い出すのは体力の保ち方が良い感じになったらの話だ。今のやり方じゃ不満か? もっと厳しくして欲しいのか?」
 見破られないように更に理由を重ねた。
 馬岱が自分と異なり、小さく華奢に見えてとてもしなやかであるという事は、それは彼女が女だからそういう体をしているのだという事は重々承知していたが、とうの昔に見なかった事にしようと腹を括った事だった。馬岱はただの、顔が小綺麗で教養のある、特に線の細い小兵だ。
「俺は俺で、貴様に約束を守ろうと心がけているつもりなんだ」
「約束……?」
 馬岱が初耳だという風に、首をかしげた。
 しまった、余計な事を言ってしまったと思った。遠回しに「なぜ私を抱かないのか」と問われている気がして、「自分はそんな事をするつもりは断じて無い」と確認しようと思わず呟いた言葉が自らを変な所に追い込んだ。
「……俺が貴様に、勝手に守ろうと思って足掻いている物だ」
「どんな物ですか」
「二つ決めて、一つ破ってしまっているからなぁ……」
 魏延が自分に課した馬岱との約束とは、「馬岱の部隊を丁重に扱い馬岱の身を危険に晒さない」という事と、馬岱を男として扱えと旧来の配下に徹底して通達し、「誰にも手を出させない」と決めた事だった。
 破ったのは前者だ。自分が伝えた情報に間違いと遅れがあり、馬岱の側近と古参兵を含む部隊の半数を失った。後者は今の所守れている。魏延は最初の内は、それを使って馬岱からの信用を得る餌の様に考えていたが、最近、馬岱自らがそんな事をしなくても魏延を信用していると言った。
 言い方・見方を変えれば、馬岱は魏延になら何をされても構わないと思い、信じているという事であり、つまり手を出してしまっても気にしない可能性があるという事であり――
「……すまん、言わんでおきたい。言ったらもう一つも破ってしまいそうだ」
 はあ、という彼女の生返事からは、納得しかねている様子がよく分かった。
 馬岱は軍権などには最初から興味を示さずにいた。将軍職を奪われて兵卒にしてやるという人事にも動じなかった理由は、肩書きや権力よりも、身近な人間と生きていられる事に比重を置いていたからだと、魏延は推測している。市井のどこにでも見られるものが、馬岱の身の回りでは危なっかしく簡単に消えていく物だったからだろうと言うのも判る。
 そして案の定、馬岱に最後まで付き従ってきた唯一無二の人間が一人消えた事から立ち直るのに、時間がかかった。ようやく立ち直る糸口を見付けたと思ったら、魏延から見れば、張れない意地を無理に張って見せているような物だった。今まで色々な人間に助けられてきた奴が、誰も頼らないで自分の力で立ってみせると言い張る様は、端から見れば、赤ん坊が一人歩きを始めようとする時よりも危なっかしさを感じさせた。否、赤ん坊程度の喩えでは充分ではないかも知れない。腕や脚を無くした人間が、自分は以前と同じだと言い張ってみせる様な物だった。
 そこで彼女に、喪った者達の代わりに俺を頼ってみろ、信じてみろと言った。彼女が頼れるのは消去法で自分しか居ないと思い当たっての提案だったが、馬岱はそれをためらいがちに受け入れた。それどころか、魏延がそう言う提案をするとは夢にも思っていなかった様で、一筋の光明に必死に縋る様な反応だった。藁にも縋る思いで、とはあんな風に追い詰まって考えが上手く回らなくなった末に取る行動だろう。
 思えば、馬岱とこういう風に何の緊張感もなく雑談して時間を潰しているのは久々の事だったから、物のついでだと魏延は考えた。今、落ち着いている筈の馬岱は自分をどう評価しているのだろう。
「折角暇なんだ。俺からも訊こう。……俺を信用してくれているか? 貴様の身内同然の側近と経験豊富な古参兵を殺したのは俺の責任だ。貴様、あいつが死んだ後腑切り刻まれた位嘆いていたみたいだが、そんなに大事な人間を殺した俺を信用しているのか?」
 わざと馬岱の心を掻き混ぜ、責める物言いをした。馬岱の表情はすぐに曇り、時間を掛けて元の顔に戻った。
「……信じております」
 その答えも、迷い続けた末に出した、仕方ない、という様な物言いに思えた。
「それに、貴方を頼れと仰ったのは、貴方自身です」
「命令だからそう言う態度を取るって言い訳か?」
「違います!」
 立ち上がって叫んだ自分の行動に今更驚いた様に、馬岱はすいませんと頭を下げ、また座った。
「あの日、あの時、私は、貴方まで死んでしまうのではないかと不安で、落ち着かなくて――」
「そこで俺が貴様の、独りになりたくないという虚を突いた訳か?」
 馬岱が続けようとした言葉が萎んで潰れ、どこかへ消えた。手振りまでも動かすのを止めた。魏延の顔を見つめ、瞬きも忘れたように凍り付いていた。やがてそれが解けて現れたのは、失望の顔だった。
「なぜ貴方は、そんなに悲しい事しか仰って下さらないのですか……」
 馬岱はそう言った。失望をべったりと貼り付けた顔の馬岱が肩を落としたまま立ち上がり、沼を歩くような重い足取りで魏延に向き直った。
「私は、貴方が望まれた通りに貴方を信じているのに。誰の代わりだとか、そう言うのではなくて、貴方の全てを心から信じているのに……」
 俯き加減に魏延を見下ろしているが、赤い瞳はどこを見定めているわけでもなく、焦点を結んでいない様に見えた。何かに取り憑かれた様な馬岱の変化が恐ろしく思えて、魏延は言葉を探した。
「……貴様、怒っているのか?」
「いいえ、悲しいんです。貴方を裏切る真似も素振りもしていないのに疑われているというのが辛いだけです」
 悲しむ場合じゃなくて本当に怒って良い場面だ、と魏延は思った。
「悪かった。貴様が頼れるのは、今は俺しか居ないんだよな。だから、俺がこんな、貴様を突き放してまた独りにさせるような物言いなんてしちゃあいけないよな……」
 謝ろうと思った。逆に彼女から「口先だけなら何とでも言えるでしょう」という言葉を返されそうな気がして、そっと抱き寄せようとして伸ばした手を、触れる直前に弾かれた。
「ひとり……。そうですね、私はもうただの兵卒で、今すぐ成都に帰ったら従兄上の遺品を収めた家も没収されていて、まず家を探すところからしなければならない、そういう人間ですね」
「違う。馬岱、貴様を試す様な口をきいて悪かった。貴様を不安に陥れてそれで俺をどれだけ信用しているか量ろうとかしたんじゃない。貴様が最初に俺に聞いたのと同じ事を訊きたかっただけだ。……本当だ」
 どう思われているか知りたくて結構意地の悪い訊き方をしたが、それが思いの外馬岱の胸を抉った様だった。
「人間、言うだけなら何だって出来ます。どんな嘘でも、証拠が無くても、上手い口先で相手を煙に巻いてそれでお金を得ている人がいる事位、知っております」
「でも俺の仕事はそいつらと同じじゃない。そいつ等みたいに口が達者だったら、今頃は丞相を騙くらかして兵権を全部俺に寄越して貰っていただろうさ」
 拳を用いない殴り合いが始まった。急所を守ろうにも守る手立てはなく、ただ自分の言葉を固く強くして相手にぶつけるしかない。威力も何もないはずの、馬岱の事実を並べただけの拳――というよりも動きの遅い大きな平手打ちは、本物の平手打ちなら、打たれるよりも速く殴り返せている筈なのに、大男に寄って集って殴り蹴られた様に痛かった。
「……言うだけなら。そうだな。言うだけなら何だって出来る。答えをくれなくても構わん、言ってやる。もう一度だけで良い。本心から俺を信じてくれ。俺は貴様に答えも何も、見返りも求めん」
「もう、何も仰らないで下さいますか」
 馬岱の返事は容赦のない一言だけだった。けれども次に彼女は、唇の端を少しだけ持ち上げて言った。
「私は貴方を、貴方として信じておりますから」


 何も起こらないなめくじと蛭の歩みの様な一日が終わった。ただ今日は馬岱と雑談して、ちょっと謝っただけだった。物見も間者も魏軍に変化はないと言っている。正直言って面白味の無い一日であった。
 馬岱と互いに信用し合っている、というのを確認しただけの一日だった。
 今夜、馬岱は夜警の当番の部隊を見張っている筈だった。日中が晴れたから今夜の冷え込みは厳しくなるだろうと思って馬岱にマントを貸してやると、余って引きずっている裾を持ち上げて、汚すまいとする様に扱っていた。汚れると箔が付くからそんな事をしなくても構わんぞと言っても、馬岱は裾を抱えたまま笑った。
 そういうのを見届けて具足を最低限残して外し、寝台に入り、毛布を被った。目蓋を閉じて、何も考えるまいとした。そうして一日の巡りに合わせて体が眠る準備をしようとしているのを、幕舎の入り口に立った気配が止めさせた。
 気配が足音を殺し、自分に、寝台に真っ直ぐに近付いて来る。幕舎を物色する様子がないから、魏軍の間者ではないと思った。
 それではこの気配は一体何だと思っていると、文長殿、と気配が言った。それだけで女で、馬岱と知れた。
 驚かせるな、と返事しようとして、思いとどまった。彼女は多分、「寝ている自分」に用があるのだ。いつかのように、今は答えがないと解っている事柄に対して迷っているから、魏延と対話している振りをしながら、模索したいのだ。あるいは、ただの独り言をつぶやきに来たのだ。緊張して損をした気分だ。
「もしも」
 うん、もしも。口には出さないが返事をした。一度冴え返った頭が再び、眠る為に頭のあちこちに灯っている警戒と緊張と、無駄な思考の火を消そうとしていた。
「もしも私が、貴方を殺すとしたら、私はどうすれば良いのでしょう。貴方が死んでしまったら、蜀漢に縁故のない私はどうしたら良いのでしょう。私は貴方の事をこの上なく信用しておりますし、どんな事でも応じます。その覚悟もあります。ただ、貴方を裏切る真似だけはしたくないと思っております。でも、裏切らなければこの国に未来はないのだそうです。私は食い扶持のために剣を取る道を選ぶしかなかった、丞相や貴方に比べれば何の志も持ち合わせていない、取るに足らない人間です。でも、志はなくても、情だとかは持ち合わせているつもりです。……けれども、貴方を絶対に信じるし何でもすると決めた忠も、貴方に助けられた恩も曲げなければならないとなったら、私はどうすればいいのでしょう」
 再び湧き上がった緊張が体の隅々を叩き起こした。実は馬岱は、寝た振りを決め込んでいるのにとっくに気付いていて、ふざけて問い掛けてきているのかも知れない。耳を澄ませ、気配に神経を尖らせるが、馬岱からは何も感じられない。試みに薄く目蓋を開けてみたが、幕舎の中は明かり一つ無く、何も見えなかった。
 馬岱は喋りながらずっと、ごそごそと体を動かしていた。落ち着かん奴だと思っていたら、厚手の布が自分の体全体を覆う気配があった。頬と首筋に、慣れた毛皮の感触があった。
「今日はそんなに寒くはありません。大丈夫です。これはお返し致します」
 一際近く囁かれた。甘くも何ともない、秋の空気に喉を少しやられた声が低く言った。衣擦れと、守る様に覆い被さられる気配がしたかと思ったら、唇を重ねられていた。そこが重なっていたのはほんの短い間だったが、頬に触れた冷えた鼻先よりも、ずっと熱っぽく思えた。反応しようとする目蓋と指先を辛うじて押さえ込んだ。
「本当に私が貴方に感じているのは、忠や恩などではないのかも知れませんけれども……貴方に死んで欲しくない気持ちだけは確かです。お邪魔しました。お休みなさい」
 これは夢だろう。
 馬岱の気配が遠離る。貴方を殺すと言ったのに、すぐに寝首を掻かずに、ただ口付けて去るなんておかしいにも程がある。いくら何でも変だ。昼間馬岱に変な事を訊かれた所為で、夢まで変になってしまったのだ。多分。


 寝相も寝起きも悪い自分が馬岱に起こされ、毛布を蹴散らし枕にして、本物の枕を寝台から蹴落として、何故か昨晩馬岱に貸した筈の自分のマントを抱き込んでいるのが訳が解らなかったのは、ほんの一瞬だった。
 夜中に寒くて起きて馬岱にマントを返せと言った記憶はない。
 寝ようとまどろんでいたら馬岱が来て、「今まで世話になった恩を裏切る形で返す事になりそうだけど、自分は魏延に死んで欲しくないし裏切りたくないと思っていて、どうしたらいいのか解らない」とか、要約したらそういう事をぐだぐだ言って寒くないから返すとマントを掛けて、触れ合うだけの口付けらしき事をして、去っていった。
 あれは夢ではなかったのだ。
 どこかで自分を殺そうとしている計画が持ち上がっていて、馬岱もその一翼を担っているらしいという事は、馬岱の口振りから解った。少なくとも昨日寝た振りをして聞いた限りでは、馬岱一人が自分を恨んでいて、用意周到に準備した上でぶっ殺してやるから覚悟しろ、という内容ではないと思う。
 だが、殺しの手筈が用意周到なのは確かだろう。まずは馬岱という手駒を用意して、それが失敗したら二の手三の手がある。しかも、自分が死んでも誰も文句は言わない予定になっている。
 どこの誰から訊いてやるべきかと思った。
 簡単だ。
 自分の上には丞相の諸葛亮しか居ない。蜀の文武の頭はあいつしか居ない。何も知らないというわけがないだろう。短絡的で乱暴な考え方だと自分でも思うが、会って揺さぶって話をしてみるだけの価値はある。何度か叩けば埃の一つや二つは出るだろう。
「文長殿、今日のご予定は?」
 諸葛亮に強引にでも話を訊きに行こうという結論に至るまで、時間は掛からなかった。
「今日はこちらはいつも通り索敵を行え。馬は鈍らせるな。それと、俺は丞相に話しに行く」
 そう言った途端に途端に、馬岱の顔色が変わった。微かな狼狽えと驚きが滲み、何かをしくじって次の一手を探そうとする様に泳ぐ目線を遮る様に、目蓋が閉じられた。白い睫が踏みしだかれた野菊の花びらの様だった。眠ってはいなかった、全て聞かれていたのだと、彼女の動作は語っていた。
 それは魏延が、昨日の事が確かに夢ではなかったと確信するのに充分な仕草だった。
「近々丞相方との面談のご予定はありませんが――」
「前倒しするんじゃない。何だか、変な予感がするから見舞いがてらに顔を見に行くだけだ」
 無茶を言わないで下さい、と抗議する馬岱をよそに、魏延は着替え、寝台を片付けた。
「随行の者は――」
「要らん。俺一人で行く」
 食い下がる馬岱を退けて、どうカマを掛けるべきかと魏延は思った。真っ直ぐ切り込んですぐに答えが出るなら御の字だが、諸葛亮やその周辺はそんなに簡単な人間達ではない。
 朝食もそこそこに、馬と具足の用意を済ませてさっさと本陣を目指して走った。
 意味不明で、はっきりしない事に対する不気味さは早急に根こそぎ切って焼き捨てなければと思う一心で、馬を急き立てた。競争する相手も目的地で待つ人間も居ないただの移動だが、もっと速く、なるべく速く、という単純さが、魏延の思考をゆっくりと和らげていった。
 搦め手も何も必要ではない。否、多少は必要かも知れないが何も全部が全部、遠回しに訊く必要なんて無い。
 本陣に着き、馬を預けると真っ直ぐに丞相が泊まり込んでいる幕舎へと向かった。何の連絡も無しに最前線の総指揮官が単騎駆け込んできたという事に、本陣の兵卒達は浮き足立っていた。
 幕舎を護衛する兵士達が今は軍議中で、と魏延が近付くのを止めさせようとするが、その内の一人に、帯刀していた剣を押しつけた。
「通せ。作法は守っているだろう。俺がどこの誰かぐらい、解らんわけでもないだろう?」
 隊長だか頭目だか、身なりの良い奴が出てきたのでちょうど良いと思い、胸倉を掴んで半ば吊し上げて、低く言った。
「ご、用件は……」
「火急の用でな。丞相殿に直に相談申し上げたくて来た。通せ」
 吊し上げた奴を解放し、その足で天幕に入り込んだ。
 前線について話しているらしい所に飛び込んだ様で、末席の誰かが「魏将軍が、」と叫ぼうとしたのが萎んで消えた。
 ざっと見たところ二十人程で、輸送計画について知識のある面々を集めた軍議の様だった。皆さんお揃いで何を話しておいでやら、と言ってやりたい気持ちが沸いて、それを飲み込んだ。
「丞相。ちょっと急用で相談したい事があって来た。すぐ済むからこいつ等は帰さなくても良いぞ。別に聞かれても構わん」
 ずかずかと上座の諸葛亮に近寄った。
「馬岱がな、何やら物思いに耽って使い物にならないんだよ。でだ、丞相、この間あいつに何を吹き込んだんだ?」
「……時に、貴方に謝らなければならない事がございます」
 魏延を無視するように話の矛先を変えようとする諸葛亮に半ば苛立ちを感じたが、一応聞く事にした。
「何を今更、謝るんだ」
「貴方と仲をこじらせてしまった切っ掛けなんですが、貴方が降ってきた時、私は当時若くて、何も解らなくて、先帝陛下の義兄弟の関・張はどうにか出来ても、この人は二人より先に死ななさそうだし、私の手に余ってしまう、どうすれば良いのだろうと思って、まあ、怖くて堪らなくてあんな事を申してしまったんです」
 そんな公私混同した事をなぜここでと思ったが、軍議に割り込んで中断させている自分が言っても説得力がないと思った。
「……今更そんな事を謝って何になるんだ。元々、俺と丞相殿とでは性分も合わなかったんだよ。俺は物事は取り敢えず、何となくでも良いから大雑把に形にして一気呵成に行きたいと思うんだが、丞相殿はちゃんと理由づけて形作らないと前に進めない」
 魏延は溜息を吐き、勝手に椅子を引いて座った。
「そうですね。こんな事を今申しても、何の益にもなりませんね。……でも、今でも怖いのは変わりません」
「ふん。何が怖いだ、馬鹿馬鹿しい。で、本題だ。一兵卒の馬岱が、俺が死ぬかもしれないだとか、殺されるだとか、おかしい事を言い出しやがったんだ。大体丞相に呼ばれて兵卒降格の書類作るとか言った辺りから変なんだ。頭の悪い俺が思うに、どうせ誰かが撤退の際に俺を殿軍にしようと進言しているのを小耳に挟んだとか、そんなのなんだろう。こんな事を訊いても教えてくれないのは承知の上で訊くがな」
 場内が小さなささやきの集まりで満ちた。うるさい、と一喝して机の天板を拳で叩くと、すきま風や小ぬか雨の様なささやきはそれだけで止んだ。
 それ以上騒ぐな、何の音も立てるな、としばらくそいつ等を睨み付けてから諸葛亮に再度視線を戻した。
「俺は成都に帰れるのか?」
 諸葛亮は答えなかった。
「俺は成都に帰る遙か手前で死ぬのか?」
 会議を一旦閉じようとするように立ち上がる諸葛亮の胸倉を掴み、引き寄せ、単刀直入だ、と一思いに訊いてやった。諸葛亮と自分の背丈はほぼ同じだ。目線の高さもそうだ。文官武官の天辺にある、池の水面のような静かな男の胸中には、言いたくない、どうしてこうなっている、という気持ちが多分あるのかもしれない。
 そして、諸葛亮は観念した様に頷いた。天幕の中がどよめきでいっぱいになった。
「殿軍を……」
 手拍子を慣れた風に二つ打って、諸葛亮は席に戻って言った。手拍子だけでどよめきは止んだ。
「今回の北伐は、我々と魏軍と、私の天命とのせめぎ合い、読み合いの戦になります。そして、魏軍は私が死んだ後の指揮系統の乱れを突こうと狙っております。そんなのは、とっくに皆様方は承知です。魏軍は私が死ねば何かしらの変化がある物と思っているでしょう。魏将軍、これは貴方にしか頼めない仕事です。何度も我が軍の窮地を救って下さり、今日も最前線に立つ貴方の腕前を見込む他にはございません」
 誰も何も言い出さない。諸葛亮の言葉が全てで、あら探しをしても無い物は出て来ないと魏延に暗に囁いている様な静けさだ。
「そしてもう一つ、この北伐の終わる時は、もう一つの戦が終わる時でもあります。その時こそ、蜀漢が先帝陛下の影響下から脱して新しく生まれ直し、正す機会でもあるのです」
「……もう一つの戦ってのは何だ」
「私の戦です。先帝陛下の影の中で、私の知略の及ぶ範囲で行ってきた戦です」
「陛下の影って、それは何だ」
「影は影です。良くも悪くも、日照りや雨風から守ってくれる木立の影を思い浮かべて下さい。しかしその樹が大き過ぎれば周りの草木が陽射しと雨を遮られ、矮小になってしまうでしょう」
 解った様な解らない様な気分だった。しかし、諸葛亮の物言いとしては相当に噛み砕かれた方だ。冬の山奥の様に静まりかえっている天幕で、諸葛亮の声だけが響いた。
「改めて私からもお願い申し上げます。今回の殿軍をお願い申し上げます。これまで以上に難しい内容になるかと思いますが、貴方ならやってくれるでしょう」
「……本当にそれだけなんだな」
「そうです」
「裏表無く、何の策もなく、俺が死ぬ事も無いんだな」
「それは、貴方次第です」
 諸葛亮が言うのは嘘だろうと思った。殿軍辺りはなんとか信じられるが、こういう時の為に用意した体の良い嘘ではないという保証は無い。けれどもこれ以上言い合いを重ねても、例え殴ってみようと、諸葛亮はこれしか言わないのだろう。
「帰る」
 観念して、あからさまな溜息を吐いてそう言った。これに関して話す事はもう一切無いと言われているのなら、いつまでもここに居る必要は無い。
 踵を返して天幕を去ろうとする途中、血の気の悪い、髭ばかりを偉そうに生やした灰色の男が居た。楊儀だ。
「……兵卒の抱き心地はどうかね」
 すれ違い様にそう呟く声がした。偉そうに、しかしいやらしくも感じる下卑た笑い方が楊儀の顔に浮かんだ。
 魏延は返事の代わりに、楊儀の襟首を掴んで吊り上げ、鳩尾に膝蹴りを見舞ってやった。ぐうと言う押しつぶされた声が漏れて、こいつは腹の中の物を吐き出すだろうなと思ったから、手首と肘のしなりを効かせて地面に叩き付けた。案の定吐いた。禿げた頭に生える枯れ草のような髪が頭蓋にへばりついていた。その顔と地面の隙間に爪先を挟み込むようにして、鼻面か額を蹴った。楊儀と魏延の名が入り交じって叫ばれている。
「貴様、今、何て言った?」
 表返った楊儀の頬には既に紫色が滲み、吐き戻した緑色の葉の断片が汁と一緒くたにこびり付いていて、腹を押さえて悶えていた。歯が折れたらしく、赤みの薄い唇から血が流れていた。
「なあ、何て言った?」
 帯刀しての入場の禁止など意味はなかった。自分の体の動きだけで、楊儀は地べたに這いつくばって動けなくなった。苦しげな息と喉に引っかかる咳の奥から搾る様に楊儀は尚も罵った。
「この……豺狼めが!」
「否定はせんな。俺は狼だ。手なずけてみたらどうだ楊長史? 丞相のようにな」
「貴様はその、抱いて乱した女に殺されるのだぞ。どうだ、どう思うんだ」
 ざわめきが一層大きくなった。楊長史を助けるべきだと言う声が上がったが、他は静観を決め込むのが自分にまで被害が及ばなくて一番良い、という反応だった。ちらりと諸葛亮を見るが、眉一つ動かさずにいる。
「残念だな楊長史。俺はあいつを毛布にした事は一回もない」
 人語には聞き取れないわめき声どもを後にして、魏延は会議の天幕を抜け出した。
 剣を返して貰って、次いで馬場に戻り、馬を返して貰った。馬に跨り、急ぐわけでもなく、自分の技量を確かめようと敢えて危ない走り方をするわけでもなく、人間で言うと小走り程度の速さで足を進めた。
 秋晴れの空の果てには、これから雨を降らせそうな雲が幾つか浮いていた。太陽は傾いている。楊儀が余計な事を言わなければ、気分が掻き混ぜられるような事にはならなかっただろうし、暴れる事もなかっただろう。
 抱いた女に殺されるのだという楊儀の言葉の後に湧いたどよめきの方が、諸葛亮の言葉よりも何倍も信用できる気がした。馬岱の事は口止めされている筈なのに、という反応だった。
 大きな溜息を吐くべきか、叫ぶべきか迷って結局両方とも止めた。
 死ぬ。自分が。
 久しく忘れていた感覚だと思った。背丈も膂力も無く、半日後に生きているとも知れなかった昔だったら、息をするようにその事を考えていた。
 どんなに痛い目やひもじい目に遭っても、なぜか生きたいと願い続けていた。死にたくないと思って、自分を殺そうとする奴らを殺し続けている内に、いつの間にか強くなっていた。
 もう誰にも自分を殺せまいと思っていた矢先に、気がついたらのど元に薄い刃を当てられていた。その刃から逃れようとどんな動きをしても付いて回って、確実に、喉の脈を狙っていた。石を砕いた、向こう側が透けて見えそうな程の薄い刃の様だった。割ろうと思えば出来ないわけでもないのに、あまりにも綺麗だからつい、矯めつ眇めつして見とれてしまう。
 それが馬岱だ。
 自分で拾って投げたり砕いたりして遊んでいる内に出来た石の、捨てられない刃だ。


 何でもない表情を作るのに時間が掛かった。馬岱より相当に世渡りが下手なのは自負しているから、とりあえず表情を繕う事を念頭に置いた。それでも繕い物だ。馬岱から見れば綻びなんてすぐに見付けて、これは何だと問い糾される羽目になるだろう。
 そういう顔で最前線の自分の陣に帰り着いた。昼過ぎ、陽が南と西の真ん中位に傾いていた時間帯だった。
 丞相とのお話はどうでしたか、と訊かれた。そういう名目で朝一番に陣を飛び出したんだったと今更のように思った。傍らを歩く馬岱に視線を落としながら喋ろうとして、ああ、うん、とか言って言葉を濁してみせるしかない自分に嫌気がさして、話題を無理矢理変えてやった。「俺は殿軍で、もしかしたら死ぬかも知れない」なんて諸葛亮の嘘をそのまま言うよりも、「俺は成都に帰る事が出来ないらしい」と言うよりも、ずっとそちらの方が気分が良いと思ったからだ。それに、行って話した所で収穫がなかったという事実もある。楊儀の物言いとどよめきの方が気になりはしたが、馬岱を責めて何かを聞き出そうという気にはなれなかった。苦しみ悶えてのたうつしかない馬岱をまた作る事になる。苦しむ間もなく殺す事も出来るだろうが、それは自分には無理だろうと思った。
 折角出来た綺麗な石の刃を折りたくない。ただそれだけのつまらない理由で。
「楊長史がな、俺が貴様を抱いて散々いたぶっているんじゃないかって、言いやがるんだ」
 馬岱が失礼ですね、と言ってくれた。ちょっとだけ救われる言葉だ。
「俺が貴様を抱いた事はない。貴様もそれはよく知っているだろう」
 よく知るも何も、自分にされた事を忘れる筈なんて無いよな、と思いながら魏延はぼやいた。
 幕舎に着く。魏延がそのまま入っていくのに対し、馬岱は入り口で立ち止まった。本来ならただの一兵卒が自由に出入り出来る場所ではない。人目のない時は自由に出入りするのを許可しているが、昼間はこの作法を差し挟む事にしておいた。魏延はただ手招いた。馬岱が入って来る。いつも二人で話し込むのは、この幕舎の中が多かった。
「実は、えっと、文長殿……」
「何だ」
「昨日、私は、寝入った文長殿に……」
 あれか、と思ったが知らない振りをした。
「俺に何したんだ。顔に落書きか?」
 馬岱がそっぽを向きながら首を振った。
「何だ、そんなに言うのが恥ずかしい事か?」
「楊長史の事を失礼って言えない……」
 幕舎の入り口から差し込む光で影になって、馬岱の表情はよく読めないが頬が赤く染まっているのは見て取れる。少し悪戯をしてやりたい気分になった。
 顔を背けたままの馬岱に近付き、肩を叩く。反応してこちらを見上げた馬岱の下顎の脈の辺りを右手で包むように捕らえ、左手で額に掛かる髪を掻き上げて、そこに口付けた。貴様が昨日やったのはこれだろう、知っているぞと思うだけで口元が綻んでしまう。
 馬岱は口付かれた途端にひゃあ、と裏返った悲鳴を上げて両手で額を押さえて飛び退いた。顔の赤みが一層濃くなり、白髪がそれを強調していた。
「最近私湯浴みも何もしていないんですから汚いですし、ふざけるのは止めて頂けませんか、こんな事誰かに知られてしまったら楊長史がまた貴方をあげつらうネタにしかねません!」
 額を押さえて馬岱が喚いた。自分の頬が緩んでいるのが判る。こいつはつくづく面白い。馬岱が勘弁して下さい、笑い事ではありません、といかにも生真面目な彼女らしい事を言って怒っている。
 馬岱は自分の事を信用している。何から何まで、何も言わずによく仕込んだ猟犬の様に唯々諾々と従ってくれる。だから今の悪ふざけを真剣に怒ってくれたのだ。今すぐここで裸になれと命じても従ってくれるだろう。馬岱自身は、彼女が魏延に対して抱いている感情を、恩や忠ではないかも知れないと言っていたが、それは一理あるだろう。
「文長殿」
 ようやく落ち着いた馬岱が、それでもまだ額に手を当てたまま声を掛けてきた。端から見れば、頭痛をこらえているような格好だが、何故それを解かないのかが少しは理解できる。
 ――文長殿が私に触れた。文長殿が私に口付けた。文長殿が笑って楽しそうに、私に口付けてくれた――
 多分そんな、幼稚な恋心に似た驚きの所為で、額を守らないとそれが薄れそうだと思っているようだ。
「文長殿の昔のお話を聞かせて頂けませんか」
「何でまた、突然そんな事を言うんだ」
「今日やるべき事は終わりましたし、ただ、聞きたくなっただけです」
「そうか。じゃあ、仕方ない」
 ごくありふれた、つまらない話だと思うが、と魏延は前置きして話し始めた。そこらの石ころのように転がっている、このご時世にはありふれた過去だ。
 細々と続いた小さな家で生まれた。武家だったので当然の様に剣を握らされて、どこかの腕利きの者を雇う金もないから父自らが毎日のように稽古をして、同じく、父が論語を手本に読み書きを教えてくれた。しかしある日、牧の命令で父は山賊討伐に出かけた。十になったかならないかという歳の頃だったと思う。長くなるかも知れないと父が言うので、父に代わって、多少の教養のあった母が、内職の合間を縫ってその続きを教えてくれた。読めない物も、解らない物も少なくなっていった。
 父は帰って来なかった。元々貧乏な家だったが、父が消えた事によって状況は厳しさを増した。糊口を凌ぐ為に何でもした。用心棒の真似事もやった。父から丁寧に教えて貰った型はこの時に忘れてしまい、ただがむしゃらな今の我流の型になってしまった。
 そして母が、自分が十五だか、十六だかの歳の冬に死んだ。やつれ果てて細く小さくなった母よりも、いつの間にか自分は大きくなっていた。死んだ母はちょうど今の馬岱くらいの大きさだったかな、と付け加えた。その歳なら結婚していてもおかしくない筈だと馬岱が言ったが、していないと答えた。出来なかった。周囲を省みている暇も金も無かったし、もう一人増える人間を養う力が今の自分の家には無いと判断したからだ。実は母にも同じ事を言われた。
 父も母もいなくなった。俺は親孝行が出来なかった。
 五つにもならない内に戦禍に親を奪われる人間や文字も読めない人間が居るのを知っているから、そいつ等よりは幸せだろうと思うけれども、常人よりも大きな体の自分を育ててくれた両親に何も返せなかった。不甲斐なくて、母の葬儀を終えた後すぐに家を飛び出した。行く先は決めていなかった。劉備に出会うずっと前の話だ。
 あ。
 そこまで話して、朝日が地平の向こうから差す様に、一筋の光の様な思考が頭の中にぽつんと出てきた。
 これから自分が、両親から学問と武芸を教えて貰ったように、馬岱に何かをしてやれる事はないのだ。成都に帰る事も出来ずに死ぬ自分には、「これから」なんて無いのだ。ではどうしてやればいいのだろう。今まで通りに信頼していると言って馴れ合うだけなのは寂しい気がした。
 どうしたのですかと馬岱が訊いてくるのを、何でもない、と追い返した。本当はもっとこの白髪の小兵と一緒に居て、組み手をして、馬を競り合い、ただ何でもない話をして、一緒に酒でも飲んで兵法について語り合うなんていう、今まで誰とでもやった事をやりたくて仕方ないのに、それをする事も叶わないのだ。ましてや、細くなった馬家の社稷を気にして養子をくれてやったり、逆に馬家を捨てて俺の家に来いなんて言ってやる事も出来ないのだ。
 いつ訪れるとも知れない自分の死の前に、懐いてくれた彼女に何をしてやれるのだろう。
 取り敢えずは彼女を死なないようにしてやる事しか、思い浮かばなかった。最前線に立ってみせるなんてもっての他だ。いや、違うだろうともう一人の自分が口を挟んだ。昨晩の馬岱の言葉をそのまま信じるのなら、あんたを殺すのは馬岱だ。なら、手っ取り早く稽古に見せかけて殺すも何かの罪を被せて切り捨てるも、全てはあんた次第だ。あんたの大刀の一振りでそいつは頭の先から股まで真っ二つに裂いてやれる。
 嫌だ。そんな物は見たくないし、したくない。生きている馬岱を眺めていたい。
 けれども嫌だとか意味がないとか言っている余地はない。自分の命に関わる話だ。馬岱の事を信じるなら、彼女は自分を裏切るはずがない。けれども何もかも言う事を聞き入れるしかない「一兵卒の馬岱」なら命令に忠実になるしかない。魏延よりも偉い諸葛亮の命令だ。聞き入れざるを得ないだろう。だからこそ、彼女は悩んでいるのだろう。
「組み手の条件」
 はい、と馬岱が合い槌を打った。何故そこでこの話を出すのかと訝しがる顔だった。
「貴様が、最前線に立って俺と一緒に戦えるようだと判断する条件についてだがな、俺の役に立ちたいって言うあれだ」
 馬岱が頷く。
「何も決めていなかったけれど、今決めよう。貴様が俺から必殺の一本を取れたら部隊の一つでもくれてやろう」
 馬岱が自信が無さそうに頷いた。
「良いか、必殺だ。手首斬ったとか膝割ったとか、そんな生ぬるい事じゃなくて、手足の一つ位落として、肋の隙間から心臓狙う位の事をして見せろ」
 良いな、と念を押すと馬岱はまた、仕方無さそうに頷いた。魏延が言うのなら仕方ないという様な頷き方だった。
「相討ちは無しだ。生き残ってこその一騎討ちだからな」
 こう言ってやれば、彼女に対しての組み手をより一層厳しい物にしてやれるし、馬岱もそれに従わざるを得ないだろう。
 馬岱の言ったあの言葉はやはり正しいと思った。馬岱は魏延に忠や恩以上の感情を抱きすぎている。憧憬なんて生ぬるい。そんな物は飛び越えている。互いに引き合った線の上を、馬岱は踏み越えたくて仕方がない。けれどもそれを何とか抑えている状態なのだろう。
 この推測が当て嵌まっているなら話は早い。
 馬岱に徹底的に嫌われる行動をしてやればいいのだ。嫌い抜いて、何に対して憤慨しているのかすら判らない状態にまでしてやればいい。魏延の全てが憎いという気持ちを強く抱かせる方が良いだろう。
 まだ推測の域を出ていないが、彼女が抱く自分への何某かの心を叩き割って踏みにじってみせる必要があるのだ。その手始めに、組み手の条件を思いついた。それだけだ。
 誰だって、必要以上に殴ったり罵声を浴びせて来る人間の事なんか嫌うだろう。


 ――先帝陛下の影だとか言う、いつもの丞相殿の遠回しで面倒くさい物言いが、時間は掛かったが何となく解ってきた気がする。
 いつまでも先帝陛下が生きている訳では無い様に、いつまでも先帝陛下を知っている人間が生きている事もないのだ。それが、この間丞相殿が本当に言いたかったことだろうと思う。だから多分「もう一つの戦」とは「先帝陛下の恩に報いる為の戦」とでも本当は言いたかったのだろう。
 その戦に加わっているのは、俺もなんだろう。丞相殿。と、言うよりもそもそも、先帝陛下の恩を強く感じている人間の筆頭に俺が上がるのだろう。で、丞相殿は死にそうだけれども俺は元気に生きている。ここがあんたの悩み所だったんだろう。
 だから、その「もう一つの戦」を確実に終わらせる為の策を馬岱に背負い込ませたんだろう。
 一応、俺だってそこまで馬鹿じゃない。何となくだけど気付いてはいる。
 戦の仕上げに、大樹の影に居た人間は皆居なくなろうと、そう言う心づもりだろう。
 けれど、後に遺されるどこと仲良くしているわけでもない馬岱に、今はただの一兵卒の馬岱に、この戦を終わらせた功労に何をやれると言うんだ。
 そこで提案がある。問題がないなら、俺の今の階位と部隊の指揮権をそっくりそのまま馬岱にくれてやってやれないだろうか。せめて、これだけならやってやっても良いだろう。そう思わんか、丞相殿。


 蝋燭の下に筆を置く。砕けすぎているかも知れない文体だが、これで良いだろうと思う。封をして、本陣の諸葛亮宛としたためて、定期報告等の通信文と一緒に包んだ。遅くとも明日の夕方には諸葛亮の手に渡るだろう。
 昔話の後に組み手の条件を話すと、馬岱は硬い表情で幕舎から出て行った。自分としては充分きつく言ってやったつもりだから、すっかり落ち込んでいるんじゃないか、どこで何をしているのか気になって見に行くと、兵卒達に混じって型稽古や乱取りをしていた。秋なのに水を被った様に汗をかき、衣が肌に貼り付いて下品な兵が馬岱を見てにやにや笑っていた。
 そんなのじゃぬるい、と言って自分もその輪の中に割って入った。鎧を着けて動きが鈍い自分よりも、袍だけの自分達の方が身軽であると判断したらしい何人かが、半ば興味半分、半ば真剣に殴り掛かって来た。素手や槍を持った兵卒を次々に投げ飛ばして、最後に残ったへっぴり腰に構えているのがやっとの馬岱に向き合って、風邪ひくなよ、とだけ言って去ってやった。向けた背中に飛びかかってくる気配を感じて、振り向き様に、彼女の肩を掴んで額の真ん中を指で弾いた。それだけで馬岱は吹き飛んで、尻餅をついた。どっと、倒れた兵も周囲で見物している兵も笑った。まともに取り合っていない、遊んでいるだけ、と言っている様な物だった。
 それから随分経って馬岱は帰って来た。しょぼくれた顔をして自分の方を見ようともせず、こそこそと寝台に向かって倒れ込んだ。それが夕闇が辺りを藍から黒に染めようとしている頃だった。今は夜中だ。
 疲れ果てた馬岱が眠っている。幕舎の隅の小さな荷物の塊の真ん中で、寝台と言うには粗末な、厚手の毛布を畳んだだけの所で小さな規則正しい寝息を立てている。当分目を覚まさないだろうし、目覚めたとしても無理な稽古がたたってうんうん唸る羽目になるだろう。
「覚悟しろよ」
 思わず独りごちた。これから厳しくなる彼女への態度に対して言ったのではないが、そうとも聞こえるだろう。
 本当は、明日から馬岱を無視し、殺さんばかりのぎりぎりの勢いで組み手をしてやって、泣きついてくるだろう彼女をはね除ける為だぞと自分に言い聞かせているに過ぎなかった。胸に、意識に、隅々に行き渡って根を下ろした彼女を駆除する為の強い意志が必要だった。
――魏文長ともあろう者が女一匹に絆されてやがんの
 自分の内に湧いた嘲笑がそのまま弱い笑いとなって口から漏れた。



「後編」へ続く

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